9.取引のこと

「メルーはどこにいるんです?」

 レストランを出て、行きつけの喫茶店に場所を移した。ここはメルーと会うために通っていた店。唯一店長のみが、この個室の意味を知っている。

 アルと名乗る男――本名はもっと長ったらしかったが、いちいちすべて言うのもばかばかしかった――は自分の問いに、まあそう急かずに、と出された紅茶に口をつけた。

「メルー・ゴールト嬢に会わせることはできますが、その前に私のほうにもいくつか用がございまして」

「用?」

「ええ。というか、お聞きしたいことが」

 にっこりと笑う男に、男の言った言葉を思い出す。人を騙すための嘘。思い出せば、この男に自然と警戒心を抱いてしまう。

「……ご安心を、お答え次第でメルー・ゴールト嬢とお会いになれないわけではありませんから」

 ことり、と紅茶のカップを置く。

「お父上のことを」

「父……ですか?」

 この男は父のことを知りたいのだろうか。父のことを、探りにきたのだろうか? ああいう人だ、何か探られるようなことをしたのか……。

「なかなかご立派な方のようで」

「……遠まわしに探ろうとするのはやめてください。あまり、そういうのは好きではありませんから」

「遠まわし?」

 男は意外な言葉を聞いたかのように―――いや、実際意外な言葉だったのだろう、少し目を見開いてこちらを見た。黒い目。だがその目は、普通の黒い目とは何かが違った。何かが……。

「ああ、何か勘違いなされているかと」

「何のです?」

「私は別に、あなたの父上の素性を探りに来たわけではないのです」

「ですが、あなたは何も知らないというわけでもなさそうですが」

「そうですね……知りたいと望めば、知らないでいられるものは何一つとしてありませんから」

 男はまるで当然のことを言うかのように、すらすらと話して見せた。しかしその内容は、すらすらと聞き流すにはひっかかることだった。

「何」

「あなたが知りたいと望んでいることも、同じですよ」

 にこり、と笑った。だがどこか、うそ臭さの漂う笑み。

「ですが、まあ、私の知りたいことはあなたしか知らないことですから、あなたの口からお聞きしたいと思いましてね」

「何を」

 そう言ってから、少し首を振って、男をにらむ。

「あなたは何者ですか?」

「私ですか?」

 男は少し驚いたようにこちらを見た。だがそれは先ほど見せた、意外な言葉を聞いたときの反応とは少し違った。どこか、用意されていた問いかけに答えるような反応だった。

「まあ各地の大学での研究を主にしている者でしてね、そちらの方面では、多少名が知れているつもりですが」

「何の研究を」

「黒魔術と錬金術を」

 は?と聞き返すと、やはり男はにっこりと笑った。

「信じられなくともけっこうですよ。あなたが信じなくとも、事実は存在するままですから」

 そして男が、ゆっくりと左手を自分の目線の高さにまで上げた。自分の眉間を指すように、人差し指を伸ばした。

「お聞きしたいことが二つ。お願いしたいことが一つ」

 男が言う。声が、突如、遠くから聞こえるような感覚に陥った。何だ? 何が?

 人差し指で指されただけで、意識が遠のいていくような感覚。眠りに落ちる直前の、現実と夢の狭間に落ち込んでしまったときのような……。

「ディーン・フラウト氏について、あなたのご意見は? あなたの目から見て、ディーン・フラウト氏は一体いかなる方で?」

「父は……」

 喉の奥から声が漏れる。自分が発そうとしているのではない。誰かがささやく。誰かが、自分の言葉を、自分の喉から発そうとしている……。

「……あの人は母をたばかっていて、母は気づかない。ああいう人だから。父も母も。父は今の地位を、人をたばかることで得て、母はずっと騙されている。僕はどちらにもなりたくない。父のようにも、母のようにも」

 誰だ……? 自分の声を発しているのは。自分の言葉を紡いでいるのは……。

「では、ヒアリス・フラウト夫人について、お伺いしたい」

「母は気づかない。あの人はいつまでも。ときどき思う。あの人は、本当に騙されているのか、それとも、気づかないようにしているのか。あの人は本当に……」

 誰だ……?

「本当にいるんだろうか……あの人は……?」

 ぼやけるような視界の向こう側で、男が笑うのがわかった。ぼんやりとしか見えないのに、はっきりとわかった。笑っている。満面の笑みを……。

「ありがとうございました。あなたのお望みをかなえましょう。そうそう、あなたとの取引で私が得る代償についてですが……」

 続きははっきりと聞こえなかった。

 すっと男の指が動いた。瞬間、視界がはっきりする。

 周りを見渡す。行きつけの喫茶店の個室。だがそこにいたのは自分だけだった。向かいには男の姿はない。だが男の飲んでいた紅茶のカップはそこにあった。何があった? 何が起こった? この一室で?

 気づけばひどく汗をかいていた。ハンカチで汗をぬぐおうとポケットに手を入れると、かさりと何かに手が触れた。入れた覚えのない紙。

 明日、午後十時、クウェイト氏の屋敷。お望みどおり。

 少し空白があって。

 あなたは、あなたの望みの代償を私に払うでしょう。家にお帰りなさい。

 

 ひどく、気分の悪い夜だった。

 ライオネル・フラウトは喫茶店を出て、それから町をうろつく気持ちにもなれずに家路に着いた。

 家の前まで来て、ベランダに母が出ているのを見つける。見上げるようにして、声をかける。

「どうしました、母さん」

 母はこちらに気づいて、こちらを見下ろした。

「ずいぶん遅かったのね」

「うん、まあ」

 あまり気分のいい話ではない。言葉を濁すと、母はそれ以上は訊かなかった。

「母さんは何を?」

「外の空気を吸いたかっただけよ」

 そう言って笑うと、部屋へ戻っていった。ため息をついて、家の中に入ろうとする。

 ドアを開けると、ひゅうっと風が吹いた。

『あなたとの取引で私が得る代償についてですが』

 誰かがささやいた。

『あなたが家に帰り、最初に声をかけて、最初に答えられた方を』

 だがその声は、思い出そうとして思い出した瞬間に思い出せなくなった思い出のようにライオネル・フラウトの脳裏をかすめて消えた。

 

 

 

 

 

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