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10.ペンキ塗りの歌のこと
クウェイトの屋敷は静かだった。庭も、廊下も、廊下の両脇に並ぶ閉じられた扉の内側も。ただ一つ、二階の扉の一つが開いていて、そこから何か歌うような声が聞こえた。だがそれは美しいというよりは、どこか調子外れな歌だった。
大きな居間には、長い黒髪をうなじの辺り結んだ痩せぎすの男が一人いるだけで、他には誰もいない。男は壁にペンキを塗っている。ペンキの缶に刷毛を入れては、壁を黒く塗りつぶしていく。単純作業の退屈さを紛らわすかのように、男は歌っている。
「七つのつぎあて服に当て、逆さのほうきに乗って飛ぶ、私ゃ国一番の医者、しわくちゃの魔女が笑うのさ、王様の城に召しだされ、見せられたのは王様の、頭についた恐い顔、これはこれは大変と、何年前からついてます、七年前からついてます、近頃食べたり飲んだりと、挙句の果てには喋ります、これはこれは大変と、これは切るしかありませぬ、だけど切ってしまったら、王様も共に死ぬでしょう」
黒く壁を塗っていく。
「棺は金に銀の蓋、あらゆる宝石つけましょう、けれど雨が降りまして、びしょぬれ棺に藁かけろ、いっひっひのいっひっひ、魔女も顔も笑い出し、魔女を捕まえようとして、霞のように消えたとさ」
ペンキの缶に刷毛を入れ、腰を伸ばすと、もう一度刷毛を手に取り塗りだす。
「いっひっひのいっひっひ、顔は笑い続けてさ、ついには王様笑い出す、いっひっひのいっひっひ、笑い続けて七日目に、王様はついに死んだのさ」
刷毛からこぼれ落ちるペンキを気にすることもない。
「棺は金に銀の蓋、あらゆる宝石つけましょう、雲ひとつない空からさ、雨がぽつぽつ落ちだして、ついには豪雨となりませぬ、棺をぬらしちゃいけないと、人々藁をかけるのさ、棺に藁をかけるのさ、いっひっひのいっひっひ」
「動くな」
男の後頭部に銃口が突きつけられた。
男は動きを止めた。刷毛を壁につけたまま、わずかに視線を後ろに向ける。銃を握った警官が、背後に立って険しい顔で男を見ていた。
警官は一人ではない。この部屋に五人。扉の外にも何人か見える。
「他の部屋には鍵がかかっています。破壊します」
警官が胸に着けているトランシーバーから雑音交じりの声が聞こえ、続いて銃声がトランシーバーを通す必要もなく響く。一、二、三、四……。
「こちら第一隊、人は見当たりません」
「こちら第二隊、人は見当たりません」
男は顔を戻して、再びペンキを塗り始めた。垂れた黒いペンキが、壁を伝って床にまで落ちている。
「貴様一人か?」
警官の声にも、男は刷毛を動かす手を止めない。
「答えろ」
ぐっと銃口が男の後頭部に強く当てられる。
「動くなとか答えろとか、忙しいことですね」
男はあきれたような、面倒そうな声でつぶやいた。あいかわらず手は止まらない。
「死にたくはないだろう。答えろ。貴様一人か?」
「ここにいるのが一人かは、あなたの部下が答えを出してくれるでしょう。それまでは待ちましょう」
胸のトランシーバーは引き続き報告を続けている。
「第十二隊、人は見当たりません」
それっきり、トランシーバーは音を発しなくなった。
「それで?」
警官の言葉に、男はペンキを塗る手を止める。
「七つのつぎあて服に当て、逆さのほうきに乗って飛ぶ」
ぼそりと、歌い始める。
「私ゃ国一番の医者、しわくちゃの魔女が笑うのさ」
警官の背後から歌う声が聞こえ、警官は銃を突きつけたまま、後ろを向く。
「王様の城に召しだされ、見せられたのは王様の」
警官の一人が歌っている。だがその顔は、自分が何をしているのかをわかっていない、驚いたような顔だった。
「頭についた恐い顔、これはこれは大変と」
トランシーバーから雑音交じりの歌が聞こえる。
「何年前からついてます、七年前からついてます」
扉の外の警官も歌い始める。
「近頃食べたり飲んだりと、挙句の果てには喋ります」
トランシーバーが、受信先を切り替える電子音に続いて、歌声を流す。
「これはこれは大変と、これは切るしかありませぬ」
男が刷毛をペンキの缶に放り込むと、立ち上がる。
「だけど切ってしまったら、王様も共に死ぬでしょう」
室内の警官は皆声をそろえて歌っている。皆、自分が何をしているのかわからずに。
「棺は金に銀の蓋、あらゆる宝石つけましょう」
警官の銃を、立ち上がった男が握り締める。「痛っ」と叫んで警官が銃から手を離す。その手にできた切り傷から血がぽたぽたと落ちた。
「けれど雨が降りまして、びしょぬれ棺に藁かけろ」
男は銃を、すでに黒く塗られた暖炉へと放り込む。
「いっひっひのいっひっひ、魔女も顔も笑い出し」
ひっきりなしに電子音が響く。そのたびに、違う歌声が、同じ歌を歌う。
「魔女を捕まえようとして、霞のように消えたとさ」
警官は後ずさる。男はそこで、まだ歌っている。
「いっひっひのいっひっひ、顔は笑い続けてさ」
男は窓を開ける。
「ついには王様笑い出す、いっひっひのいっひっひ」
ざわざわと、庭の木々が風にざわめく音が聞こえ。
「笑い続けて七日目に、王様はついに死んだのさ」
男はその窓枠に腰掛ける。
「棺は金に銀の蓋、あらゆる宝石つけましょう」
廊下から、トランシーバーを通さなくても、他の部屋の警官の歌声が聞こえ。
「雲ひとつない空からさ、雨がぽつぽつ落ちだして」
警官は傷を負ってない手で腰から警棒をとった。警棒を伸ばし、男へと静かに詰め寄っていく。
「ついには豪雨となりませぬ、棺をぬらしちゃいけないと」
男はまだ窓枠に腰掛けている。
「人々藁をかけるのさ、棺に藁をかけるのさ」
警官が男へと警棒を振り上げる。その警棒が、無防備な男の顔を確かに殴りつけたと思った瞬間、男の姿は消えていた。窓枠をしたたかに撃ちつけてから、警官は口をあけ、声を発した。
「いっひっひのいっひっひ!」
クウェイトの屋敷に入った警官が退散してきたのは一時間後だった。だが屋敷で彼らが何を見たのか、何が起こったのかは誰にもわからなかった。警官は皆口をそろえて、もはやかすれ始めた声で、それでも、一つの歌を延々と繰り返し歌っていた。