8.蔦のこと

 フェルディナンド・メイヤーにとって人生最大の不運、もしくは、彼にとってその日が彼の人生でもっとも恐ろしい一日となった事態は、彼が廊下に出たことで引き起こされた。

 フェルディナンドは廊下に出た。手洗いの場所を聞いたのは、連絡を取るためだった。審査会に――彼とその相棒としてはめったにないことだが――途中経過を報告するためだった。あの男の言っていることはあまりにも支離滅裂で、審査会が望んでいるような結果は得られまい。ならそれに応じた対処をするべきだ。だがフェルディナンドは、彼自身知らず知らずに焦っていた。この屋敷は嫌いなのだ。あの猛犬たちだけではない。屋敷を取り囲むようにある小さな森が、彼にとっては嫌悪の対象だった。あんなふうに木々を生い茂る場所は彼を息苦しくさせる場所だった。この屋敷の様式の古臭さも嫌いだ。ぎゅうぎゅうと締め付けるような空間。彼は開けた場所が好きだった。たとえばだだっ広いロビー。磨き上げられた床と光を反射するガラス窓。人が無機質だと言ってしまいそうになるそんな光景こそ、フェルディナンドにとっては愛おしいものだった。まったく、こんな悪趣味な建物の中でよく平気で暮らせるものだ!

 手洗いは一階だな、と階段へと向かおうとした。そこには階段があるはずだった。途中の踊り場の窓に、子供が一人いたことを彼は覚えていた。だから、階段はあるはずだった。フェルディナンドの足が止まった。階段がない。

 廊下は静かだった。彼は後ずさるようにして、反対方向へと進んだ。階段がない。もう一度引き返した。階段がない。

 黒魔術と錬金術。彼が訪ねた男の名刺に書かれていた言葉。首を振る。そんなものが、この時代に存在するものか。そのような、因習と迷妄に満ちた時代の話……。

 廊下の突き当りの窓を見る。屋敷に入ったとき、まだ昼過ぎで、晴れた空には雲がいくつか浮かんでいた。だが窓から入ってくる光はほとんどなかった。曇っているにしては、暗すぎる……。

「一人いるね?」

 背後から聞こえた声に振り向く。妙に甲高い、子供のような声。声変わりがまだの、ごくごく小さい子供の……。

「銃を撃ったね? 銃弾を撃ち込んだね? 悲鳴をあなたは聞かなかったね? 聞かなかったんだね?」

 問いかけは廊下を響いて届いた。フェルディナンドは懐にしまった銃を取り出した。この屋敷は嫌いなんだ。この圧迫感が……。

「誰も声を聞かないだろう。お前しか声を聞かないだろう」

 他の声。男の声。どことなく、屋敷の前で出会ったあの赤髪の男の声に似ているような……。

「俺にも、あの方にも、あいつにも、聞こえない。お前にしか聞こえない」

「僕の杉の木を切ったのは誰? 僕の森を燃やしたのは誰? 僕のあの人はどこに行ったの?」

「誰も知らない。お前の杉の木を切った男は死んだ。お前の森を燃やした男は死んだ。お前のあの人がどこに行ったのか、誰も知らない」

 ざわ、と廊下の片隅から、闇が這い出てきた。それが闇でないことに気づく。それは蔦だった。蔦が、廊下の片隅から、廊下を這って出てきた。

「銃弾を撃ち込んだのは誰?」

「銃弾は三発。誰が撃った?」

 ざわざわと蔦が、廊下を這って、自分のほうへとやってくる。後ずさる。

「誰が撃ったの?」

「誰が撃った?」

「誰が?」

「誰が? さあ答えろ、フェルディナンド・メイヤー」

 蔦の動きが止まる。息を吐いて、もう一度周りを見渡す。階段がない。窓の外は暗い。曇っているにしては……。

 かちゃり、とどこかの鍵の開く音。

 きいっと窓が開く。窓の開いた隙間から、蔦が這い出てきた。ざわざわと壁を伝いながらこちらへやってくる。ざわざわと、廊下を這ってやってくる。

「木の枝を折ったのは誰? 木の枝に人形をぶら下げて銃で撃ったのは誰? 木に銃弾を打ち込んだのは誰?」

「さあ答えろ、フェルディナンド・メイヤー」

 窓に銃を向ける。撃つ。だがそれは、窓を覆い尽くしていた蔦に食い込んだだけで、窓を割りはしなかった。

 窓のほうへ駆ける。

 もう一度近距離から撃ち込む。だが結果は同じだった。蔦がざわめく。

「二回」

「三回目だ、アワウー」

「そう、なら、しかたないね」

 視界が暗くなる。物と物がこすれあう音。ざわめくような、ささやくような音。フェルディナンドは、自分の手に蔦が絡まっているのを見た。手に持っていた銃を、蔦が遠くへと運んでいくのを見た。自分の足に蔦が絡まっているのを見た。蔦が足を上ってくるのを見た。腕を伝って、蔦が首に触れるのを感じた。

 フェルディナンドは悲鳴を上げた。だがその悲鳴は、蔦の中に飲み込まれていった。

 この屋敷は嫌いなんだ。この圧迫感が……。だが思い出しかけたその言葉すら飲み込むように、蔦は彼を飲み込んだ。

 

「で、どうするんだ?」

「どうもしない」

「じゃ、どこかに放っておけよ」

「うん、そうする」

 

 北の町から金庫内で見つかったクウェイトの屋敷の使用人頭についての詳細な報告が届いた頃、警察署の前でがくがくと震えながら、口の中で蔦が蔦がとつぶやいているフェルディナンド・メイヤーが発見された。彼が屋敷へ赴いて二時間後のことで、彼は何を聞いてもろくに答えられず、とりあえず病院へと搬送された。彼と共に屋敷に赴いたライル・フォーテンについては消息はまったく分からず、審査会はクウェイトの屋敷に警察を派遣すべきという結論に至った。

 

 

 

 

 

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