7.隠された恋のこと
ライオネル・フラウトは町でも有名な青年だった。それは人目を引かずにいられない整った容姿や、人と打ち解けることに長けた性格ゆえだけではなかった。彼は町唯一の銀行の御曹司であり、将来この町における有力者の一人になることを約束されている身でもあったからだった。
彼は友人も多く、女友達もいたが、恋人と目される女性はいなかった。だから彼の父親が彼にふさわしい女性を娶わせようとしているということが町の噂になったとき、町の妙齢の娘やその親は歯噛みをしたことだろう。しかしそれは、ライオネル・フラウトにとってはどうでもいいことだった。彼にとって問題なのは、彼の父が、彼にふさわしい女性を娶わせようとしている、そのことにあった。
「おやめなさい! 恋破れることはあなたの心を傷つけるかもしれませんが、恋貫くことはあなたの命を傷つけかねません!」
町の娯楽のひとつは演劇であり、劇場はたいていの場合、時には不必要なまでに着飾った人々で溢れかえっていた。だが劇場の、そこそこにいい席に一人座っている青年にとって、周りの着飾った人々が一体何者であるかは重要なことではなかった。近くの席に座った壮齢の女性たちがひそひそと自分について何かささやき交わしていることも、彼には重要ではなかった。彼は舞台を眺めていた。だがその舞台が彼にとって興味惹くものであったわけでもない。彼は心ここにあらずといった面持ちで舞台を眺めていた。舞台は典型的な悲恋物で、分別のある大人が恋に恋する乙女に身分違いの恋を諦めるように諭していた。彼は口の中で繰り返した。恋貫くことはあなたの命を傷つけかねない。
メルーはどこに行ったのだろう?
ライオネル・フラウトはその日、何十度目かの問いを心の中で繰り返した。彼の隠された恋人は、彼よりも十歳年上の女性だった。以前夫を持っていたがその夫と死に別れ、一人ではあれどもたくましく生きている、そういう女性だった。父に言えば目の色を変えて反対するに決まっていたが、彼はどうしても彼女としか添い遂げられないと思っていた。だが反対に、彼女が自分たちの恋を貫くことに恐れを抱いていた。時には別れを持ち出された。だがそのたびに、彼は叫ぶようにそのような考えを捨てるように言った。
予兆はあったのだ。自分の結婚話が町のひそやかな噂になったとき、メルーは何も言わなかった。自分を信じてくれているのだ、と思ったが、それも自分の自惚れに過ぎなかったのだろうか? いつも落ち合う町のはずれの小さな家にメルーは現れず、彼女の家にはすでに誰も住んでいなかった。
彼女を探そうにも、自分はあまりにも無力だった。どうやって探せばいい? 臆面もなく人に聞いて回るか? そうなれば父の耳に入るだろう。そして自分の隠された恋人のことを知れば、自分よりも先に彼女を見つけ出して、彼女を恐ろしい目に合わせるのではないのだろうか? 彼は父をよく知っていた。よく知っているからこそ、父の耳にこのことが入ることがどれほどに恐ろしいことかを知っていた。
母はどうだろう? だがそれも期待できなかった。長らく父につき従ってきた母は、父の言いなりのようなものだった。自分がひそかに相談したところで、どうせ父に聞かせるに違いないのだ。
メルーはどこに行ったのだろう?
舞台はすでに終盤にかかっていた。このままでは添い遂げられぬと知った男は乙女を連れて逃げようとする。だがそれを許さない乙女の父親は追っ手を差し向け、男はこれ以上逃げられないことを悟る。自分のことは忘れ、他の男と一緒になるよう乙女を諭そうとした男を、乙女は隠し持っていた短刀で突き殺し、自らもまた死ぬ。追いついた父親はその乙女の覚悟の程を知り、涙しながら悔いる。
そうだ。意気地がないのは自分なのだ。
父に反対されようがなんだろうが彼女と添い遂げるために、それこそ彼女を連れて逃げることだってできたはずなのに、そうせずに何とかなるとばかりに時間を無駄に過ごしてきたのは自分なのだ。メルーは行動した。だが自分は今、何をしている?
「一度卑怯だったものは、二度目も卑怯なものです」
突如聞こえてきた声に、ライオネルは目が覚めるような思いで周りを見渡した。薄暗い劇場の中、はっきりと顔は見えなかったが、声は隣から続いて聞こえた。
「ですが二度目のチャンスはまだ終わりきっていない……舞台にはっきりとした終わりがあるのとは違い、チャンスにはっきりとした終わりはないのですから」
その瞬間、舞台の照明が落ち、幕がするすると下がってきた。まばらな拍手が劇場を埋め、それから波のように引いていく。やがて劇場の照明がつけられ、十分に時間を潰した人々がそれぞれ帰路につき始めた。
隣に座っていたのは黒髪黒目の男だった。きちんと仕立てられた立派なスーツに身を包んだ三十から四十といったところの、一目見て信頼を置いてしまいそうになる、そんな男だった。
「ライオネル・フラウト君ですね? 私はファッランディーノ・アルジェルダッドと申します。お好きなようにお呼びいただければ」
男が名乗り、ライオネルは名前を繰り返そうとして、思い出しきれずに口を閉じた。男はわずかに笑みを浮かべた。
「アルとでもお呼びいただければ」
「それで……アルさん、僕に何か用事が?」
はて、と首を軽くかしげる。
「用事というほどの用事ではないのですが……ああ、いつまでもここにいるのはいけませんね、外に出ましょう」
席から立ち上がって男が歩き出す。一瞬ためらうも、その後について劇場を出る。すでに夕暮れになっており、町は薄い青色をかぶせられたような色合いだった。劇場の前を勢いよく救急車が通り過ぎていく。あの方向は病院だな、何か事故でもあったのだろうか……とそちらを見ていると、周りの人々の話し声が耳に入った。
「気狂い?」
「ええ、蔦が絡まる、蔦が絡まると叫んでる若い男が」
「まあ恐い。近頃は奇妙な人が増えていますから」
「どうなさいました?」
男の声に、そちらに振り向く。
「いえ、何か事故があったようですから」
「事故というほどではないですよ。あの男は自分のしたこと相応の罰を受けただけです。あれで済んだのですから、むしろ感謝するべきだと思いますがね」
男はまるでそれについて自分は全部知っているというような口ぶりで車が走り去った方向を見た。
「何かご存知で?」
「摘み取った花をめでたところで、摘み取られた花の思いは知ることができないものです。さて、何か食事でもしましょうかね」
くだらないことを話したというように軽く肩をすくめ、男は角のレストランを指差した。さっさと歩き出した男に、引きずられるようにしてレストランに入る。男の顔を見て、それから後ろの自分の顔を見たウェイトレスは、急いで窓辺の席へと自分たちを導いた。
「あなたはずいぶんと有名なようですね、この町では」
「……あまりこの町に長くいらっしゃってないようですね」
「ええ、二週間ほど前についたばかりで。二十四年前に来たことがありますが、そのときとはずいぶん変わっていますね」
席に着きながら男の言った言葉に、男の顔をまじまじと見る。この男は、自分が見立てたよりも年上なのだろうか。二十四年前となれば、この男はずいぶんと若かったはずだ。
「このレストランも、支配人が変わってしまった。彼は実にいい人だったのですがね。叔父に裏切られてもそれを受け入れられるほどに」
メニューを持ってきたウェイトレスがぎょっと男のほうを見る。しかし男は軽く手を振り、メニューを受け取った。
「残念ながら僕には分かりません。僕はまだ二十歳ですから」
口早に注文を取り付けて、男はメニューをウェイトレスに返した。それから自分のほうを見る。その黒い目を見返す。
「僕に何の用事ですか?」
「用事というほどではないのです。取引というべきでしょうか」
「取引?」
「ある人を探していらっしゃるんでしょう?」
びくっと体が震える。自分とメルーのことを知っている人間は必ず自分の知り合いであり、決して口外しないことを約束させている。いや、誰にも知られずにいることはできないと分かっている。だが目の前のこの男が、そのことを知っているとは思わなかった。だがこれもまた、何かの駆け引きかもしれない。罠かもしれない。
「さあ、僕には特に」
「嘘をつくには年季が必要です。人を騙す嘘をつくにはね。あなたは私ほど嘘には長けていないし、これからも長けることはないでしょう」
この男はペテン師か詐欺師だろうか? そう思えば、男の何ともない身なりや容貌がいかにも怪しく思えてくる。いかにもな格好はしないのだ、人を騙す人間は。彼らは当然の姿をして、当然の言葉を吐きながら、その後ろに罠をかけて待っている。だが人を騙そうという人間が、わざわざ嘘をつく人間だと名乗るだろうか?
「では単刀直入に申し上げましょう。メルー・ゴールト嬢の行方について存じ上げておりますが?」
男はにこやかな笑みを浮かべてこちらを見た。ライオネル・フラウトはため息をついた。深い、胸の奥からの震えるため息を。恋する者だけが吐きうる、あのため息を。