6.客人のこと

 出された紅茶にまず手を出したのは壮年の男――ライル・フォーテンだった。若い男――フェルディナンド・メイヤーは警戒心をあらわにして、テーブルを挟んで紅茶を飲むファッランディーノ・アルジェルダッドという男を見ていた。

「それで、あなたはクウェイト氏の友人なのですね?」

 カップを置いてライルが聞くと、ファッランディーノ・アルジェルダッドもカップを置いて、にこやかに肯定した。

「ええ、彼とは長い付き合いで……」

「それはどれくらい……?」

「そうですねえ、ざっと……」

 指を折って数えはじめると、ドアのところに立っていた痩せた男が口を開いた。

「二十四年です、ファッランディーノ様」

 ああ、そうだ、と指を折るのをやめると、彼は懐かしむような目を見せた。二十四年。決して短い時間ではない。だがクウェイトの身辺調査には、そのような人間はいなかったはずだが?

「失礼ですが、そのお名前は本名ですか?」

 フェルディナンドの言葉にライル・フォーテンがぎょっと隣に座る彼を見た。しかしファッランディーノ・アルジェルダッドはその質問に気を悪くすることなく、ええ、とうなずいた。

「本名ですとも。人それぞれに私を呼びますがね。ファル、ファッラ、ファッラン、ディー、ディーノ、アル、アルジェ、アルジェル、ダディー、ダッド……もっとあったはずですが、思い出せるのはこれくらいですかね」

「では、黒魔術学と錬金術学の教授というのは? そんな学問を認めている大学がこの世にあるのですか?」

 フェルディナンドの質問に、ファッランディーノ・アルジェルダッドは面白がるように彼の顔を見た。フェルディナンドは多少身じろぎはしたが、怖気づいた様子は見せなかった。

「ありますとも」

「浅学なものでして、後学のためにお伺いできませんかね、その大学……」

 フェルディナンドの攻撃的とも言える姿勢に、ライルは乗ることにしたらしい。しかし若い男よりは物腰柔らかに問いかける彼に、ファッランディーノ・アルジェルダッドはにっこりと笑って答えた。

「パンデモニウム」

 は?とライルが聞き返す。

「もっとも私は他の様々な大学での講義や研究を主にしていましてね。ジェノバ大学、オックスフォード大学、カイロで研究をしていたこともあります。あそこはとてもいいところですよ」

「はあ、お話を伺う限り、その筋ではご高名な方とお見受けしますが……」

「いえいえ、私など一書生に近いようなものです。ええ、師が私を見たらきっとこうおっしゃるでしょう。『お前は何をやっている? 恐怖など、我々の求めるものでないのだ』と……」

 ライルとフェルディナンドが顔を見合わせた。この男は一体何を言っているのだろうか?

 ちらりとフェルディナンドーがドアのほうを見た。そこにはあいかわらず痩せた男が立っていた。

「すみませんが、手洗いはどこに……」

「ああ、一階にありますよ。ご案内差し上げましょう」

「いえ、場所をうかがうだけでけっこうです」

 立ち上がるとフェルディナンドはライルに目配せした。ライルの顔つきは少しこわばっていた。

 フェルディナンドが部屋を出た。ぱたんと痩せた男がドアを閉じる。ライルはわずかに身じろいだ。

「何を恐れてらっしゃるので?」

 ファッランディーノ・アルジェルダッドの問いかけに、ライルは口元に笑みを――それも少しひきつった笑みを――浮かべて首を振った。

「いえ、何せこのような立派な屋敷に入るのは初めてでしてね、どうも勝手が……」

「はは、ご謙遜を。トニー・シューラルの屋敷に三年も潜入してご自身のお勤めを果たした方が何をおっしゃいますやら。彼の屋敷はここよりもよっぽど豪奢な屋敷だったと記憶してますが」

 ぎょっとしてライルがファッランディーノ・アルジェルダッドの顔を見る。不意に、三時を知らせる町の鐘の音が聞こえた。

「おや、もうこんな時間ですか。クロト、お茶の用意をしておいてくれ」

 は、と頭を下げて痩せた男が部屋を出る。

「お客人でも参られるので?」

「ええ、古い友人が来るので……」

「それならそうとおっしゃってくださればよろしかったのに。せっかくのご友人の来訪となれば、私どもは早々に……」

 早くも立ち上がろうと腰を浮かしかけたライルに、ファッランディーノ・アルジェルダッドはにっこりと笑いかけた。その笑みに、ライルは動きを止めた。

「いえ、ご用事をまだうかがっておりません。審査会は私にどのような用向きで?」

 ライルは椅子に再び腰掛けた。その顔は、引きつり、汗ばみ、明らかな恐怖を浮かべていた。それはこれまで、ライルの身に起こったことのないものだった。マフィアの頭目であったトニー・シューラルの屋敷に潜入し、彼の身辺を調査し、彼の暗殺のために計画を練り、それを完全に実行したときですら、彼は自分の本心をわずかでも明らかにするようなそぶりを決して見せなかった。その仕事ぶりを買われて、審査会から多額の報酬と引き換えにこの仕事を引き受けた。だがライルは明らかに恐れていた。

 冷静に考えろ。この男は、何らかの手段で自分の情報を手に入れただけだ。恐れることはないはずだ。言動も、きっとこの男は多少精神を病んでいるに違いない。黒魔術やら錬金術やら、そんなものが存在するはずがないのだ。恐れることは……。

 かばんの中からライルは一綴りの書類を取り出した。

「土地占有規定についてはご存知ですか?」

「いや、浅学ながら……」

「すべての人に安らぎの家を与えるために、審査会は一人が大きな土地を占有することを禁止しています。クウェイト氏は長らくこの規定に反していまして、審査会もたびたび警告を与えていたのですが、このたびクウェイト氏の友人であるというあなたのほうから、どうかクウェイト氏へ言っていただけないかと……」

「はあ、変わった規定ですね」

「いえ、この町もずいぶんと人が増えまして。一方で百年も持ちそうな屋敷を持つ者がいて、一方で雨をしのぐこともままならないような者がいるのは、どう考えても不公平ですから……」

「神は金持ちにも貧しいものにも、等しく雨を降らせます」

 ファッランディーノ・アルジェルダッドの言葉に、ライルは言葉を止めた。

「そして同じく、等しく日の光も当てます」

「え、ええ、神は絶対的に平等であり、絶対的に公平で……」

「そして、日の光がある限り、我々もまたいるわけです」

 ドアが開いた。フェルディナンドか、とライルは振り向いたが、入ってきたのは銀の盆の上に茶器をそろえた痩せた男だった。

「フェルディナンドは、どうしました?」

 ライルは乾いた唇をぬらすようにうめいた。はあ、と痩せた男は首をかしげた。

「少なくとも、私は見ていませんが」

 痩せた男は茶器をファッランディーノ・アルジェルダッドとライルがいるのとは違うテーブルに並べていく。

「と、ともかく、これらの書類をクウェイト氏に渡していただけないかということと、それと……」

 ライルが何とか言葉をつなげようとしたとき、ファッランディーノ・アルジェルダッドは書類を手に取り、それをまじまじと眺めた。やがてつまらなさそうな表情を浮かべる。

「これ以上、何を公平にしろと?」

 そういうと、ファッランディーノ・アルジェルダッドは書類を二つに裂いた。

 あ、とライルが声を上げる暇もなく、二つに裂かれた書類を、ファッランディーノ・アルジェルダッドはそれぞれたたむと、側に寄ってきた痩せた男が持ってきた空の銀の皿に置いた。そして、天井を眺めた。

「し、審査会の……」

「ご用事は十分におうかがいしました。クロト、フェルディナンド・メイヤー氏は?」

「私は存じません、ファッランディーノ様」

 痩せた男が紙が乗った皿をテーブルに置き、二つそろえられたカップに紅茶を注いだ。

 その瞬間、どすん、と何かがテーブル脇のソファーに落ちてきた。それはごそごそと動き、やれやれと床に降り立った。

「やあ、お久しぶりですね、ダラディーノ殿」

「私はファッランディーノ・アルジェルダッドですよ、ジェレミー殿」

「いやいや、久しぶりなものですから。おや、お茶ですか」

「ええ、わざわざいらっしゃられるということで」

 もう一度ソファーに腰掛けたのは、一張羅だろうか、スーツを着込んで、手にはこうもり傘を持った、人間の子供ほどの大きさのアマガエルだった。足には靴を履いておらず、床が水でぬれていた。

「いやはや、蝶の羽のサンドイッチとは! 私の好物を覚えていらっしゃったとは、嬉しい限り」

「遠路はるばる来られたことですし、どうぞ」

 いやいや!と言いながら、アマガエルは銀の皿に載せられた紙を取った。いや、今はそれはもう紙ではなかった。薄く切られたパンに、大きな薄い色鮮やかな野菜――アマガエルの言葉を信じれば、蝶の羽!――をはさんだサンドイッチになっていた。

「やれ、二十四年ぶりですかね、ここに来られるのは! やあ、クロト殿。あのサラマンダーはあいかわらずお元気ですかな。アワウー様は?」

「皆息災です。あなたも、お元気のようで安心しました」

「何、なかなか大変ですよ。川がああも弱ってしまっては……」

 ライルは何を言ったらいいのかわからなくなった。ここにいる人間は皆、この人の子供大のアマガエルが、服を着、こうもり傘を持ち、人の言葉を喋り、先ほどまで審査会の書類であったはずの蝶の羽のサンドイッチにぱくつき、紅茶を飲んでいることに対して、何も疑問を抱いていなかった。ライル以外に。

「ところで、こちらの方はどなたですかね? ファ、ファル、ファ……」

「ファルでけっこうですよ、ジェレミー殿」

「ああ、ファル殿のご友人で?」

「いいや、いいや!」

 その声はドアの外から聞こえた。甲高い、幼い子供のような声だった。とたんに、ジェレミーと呼ばれるアマガエルはサンドイッチとカップを放り出して床にはいつくばった。ファッランディーノ・アルジェルダッドはドアのほうを見て、声をかけた。

「アワウー、どうした?」

「もう一人いるね? もう一人いるね?」

「もう一人いるとも。どうした?」

「もう一人! もう一人!」

「そうか、それなら」

 さっとファッランディーノ・アルジェルダッドは腕を振った。瞬間、ライルの体はふわっと椅子から浮き上がり、さっと開いたドアの向こう側へと飛んでいった。ライルが最後に見たのは、テーブルの向こう側でにこやかに笑うファッランディーノ・アルジェルダッド、はいつくばったままのアマガエル、そして、ドアを閉めようとする痩せた男だった。そして、ライル・フォーテンはそのまま、廊下の闇の中へと落ちていった。

 

 

 

 

 

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