5.午後のお茶のこと

 鏡台の前には小瓶が置かれてあった。それを眺めて、彼女はため息をついた。

 考えれば考えるほど、分からなかった。あの男はなぜ自分の十八歳のあの日のことを知っていたのか? フィエルド神父が関与していないというのはどういうことか? この黄金の薬は一体何なのか? あの男は何をしようとしているのか?

 そして何故、自分はこの小瓶を川に捨てることもなく、今鏡台の前に、わざわざ目につくところに置いているのだろうか?

 あの男、と男が言っていたのは、本当にあの人なのだろうか。この薬を、夏至の日の――それはもう一週間後に迫っていた――真夜中の十二時に飲めば、一体何が起こるのだろうか? それは、取り返しのつかないことなのかもしれない。それならば、今すぐ捨ててしまうか、男の言うようにドミニクに飲ませてしまえばいいのだろうか。いや、毒かもしれない。それならどこかに流して捨ててしまえばいい。それなのになぜ、自分はまだ、鏡台の前に小瓶を置いたままなのだろうか?

 下の方でドミニクが吠える声が聞こえた。彼女はため息をもう一度吐いて、首を振った。今は考えないほうがいい。今は……。

 気を取り直して姿見に自分の姿を映す。人を出迎えるに問題ない自分の姿を見て、彼女は部屋を出た。鏡台の前の小瓶は、光を受けて輝いていた。

 

「ライオネル君に奥方を迎えるというのは、いい案だと思うわ」

 女学校時代からの友人である婦人の言葉にうなずいた。

「もうあの子も二十だから、私もいいと思っているの。でもライオネルが……」

「まだ二十よ。ライオネル君は確かに賢い子だけど、まだ子供よ。親の言うことをまだ聞くべきときよ」

「……そうね」

 自分が結婚したのは十八だった。あの日の一ヵ月後、予定通りに夫に結婚を申し込まれ、予定通りに自分はそれを受けた。それは決められていたこと。息子――ライオネルもそうだ。あの子の結婚もまた決められ、あの子もその通りにしなければならなくなるだろう……。

 二週間に一回、フィーノ――今目の前でカップに口をつけている婦人――とお茶をするようになったのはずいぶんと昔のことだ。だが習慣となったこのお茶会は、厭うほど悪いものではなかった。何かと家にいることを求められる身にとって、友人とほんの少しお茶をするということだけで楽しみだったのだから。

「ねえ、フィーノ」

 カップを置いた友人に声をかけると、なあに、と彼女はこちらを見た。

「もしずっと長い間会えなかった人と再会できるとしたら、あなたはその人に会う?」

 彼女はこちらをじっと見た。自分が何を言い出そうとしているのかを探り出すように。

「よく分からないわ。誰に会うというの、ヒア?」

 このどこか挑戦的なまなざしを、自分は好きだった。

「たとえば……一度だけ会ったのだけど、忘れられない人とか」

 彼女のまなざしを正面から受け止めるのは、最初は慣れなかった。だが彼女にとっては、その視線を受け取ることこそが彼女を疎んでいない印になるのだと知ってからは、この視線から目をそらすことはなくなった。

「会わないわね」

 彼女はその視線を外した。

「会わない?」

「長い時間が経っていれば、会わないほうがいいものよ。思い出は美しいけれど、現実はいつでも醜いものよ。目の前に見ている現実が醜いのに、どうして自分の中の思い出まで醜くしなければならないの?」

 彼女は自分より少し遅く結婚したが、夫君とは上手くいっていないというもっぱらの噂だった。だがその噂が本当かどうかは知らない。彼女はそれについては何も言わない。ただときどき、そうなのではないのか、と思わせるような言葉を紡ぐだけで。だがそれもまたはっきりとした証ではなかった。

「いつの日か、その人にまた会うかもしれない、と思うこと。それだけでいいのよ。実際に会えば、それから何を思って生きればいいのかしら」

 彼女は笑った。何か冷笑のように見えた。だけどそれが、決して彼女の心のすべてでないことも知っていた。彼女はさびしがり屋なのだと。だからあらゆるものに距離をとって

生きているのだと。

「……そうね」

 視線を下に下げる。手の中のカップの中の紅茶が揺れる。

 夫、子供、家。あの人は、思い出の中。

「でも……」

 ぽつりとフィーノがつぶやくのを聞いて、顔を上げる。

「もしその人が私に会いたがっているのだとしたら……分からないわね」

 彼女は遠くを見ていた。……とても遠くを。

 

 フィーノ・エルンドは立っていた。二週間に一度お茶をする友人の家から、通りを二つ隔てたところに。この先の角を曲がって、少し行って、もう一度曲がれば友人の家だ。そこで思い当たる。私は行こうとしていたのかしら、それとも帰ろうとしていたのかしら?

 空はすでに夕暮れに近かった。けれど自分は家を出てきたそのままの格好だった。かばんの中には、友人に貸すつもりだった本が入ったままだった。貸すのを忘れたわけではないだろう。かばんを開ければすぐに見つける場所に入れているのだから。となると、自分は家を出て、友人の家に向かっていて、立ち止まって、夕暮れまでここに立っていた? そんなわけがないだろう。しかし今自分の置かれている状況は、そうでないと説明がつかなかった。

 とりあえず、ヒアの家に行かなきゃ。もし行っていないのなら謝らなければならないし、行った後なら忘れ物をしたとでも言えばいい。そう考えて歩き始める。しかしすぐに気づいた。自分がいくら歩いても、通りの先に見える街灯が近づいてこない。一度立ち止まり、周りを見渡す。いつもの通り。ただ、人が通っていない。おかしい。夕暮れなら誰かが通っていて当たり前なのに。ひどく静かで、ぞっとした。もう一度歩き始める。早足に近くなる。走る。けれど街灯は近づいてこない。立ち止まる。

「どういう……こと!?

 叫んだ声に答える人はいなかった。家に帰るべきだろうか? けれどもし、家にも帰れなかったら? 寒気はさらに強くなった。

 やがて向かいから、誰かが歩いてきた。ほっとして、その人を見る。そして、前よりもさらにぞっとした。

 鏡でしか見たことのない姿。それは間違いなく自分だった。

 声を上げようとしても、声にならなかった。自分は目の前にやってきて、自分をじっと見た。自分の目だ。自分の顔だ。自分の姿だ!

 不意に、ある人間と同じ姿をした亡霊のことを思い出した。もしその亡霊に会ったら、その人間は死ぬことも。

 自分は何も言わずに自分を見ていた。そして、にっこりと笑った。

「本当はもう少し眠っていてもらうつもりでしたが、目覚められましたか。私も少し、あなたを侮っていたようです」

 それは自分の声だった。だが自分の言葉ではなかった。

「恐れることはありません、フィーノ・エルンド夫人。あなたは死にませんから。ええ、ただ……」

 すっと自分の手が伸びて、自分の顔に迫る。逃げようとしても逃げられない。そっと自分の手が自分の目を覆う。意外にも、それは温かな手だった。

「今日という日は、十年後覚えているには値しない一日。目覚めなさい、あなたはあなたの家の、あなたの部屋の、あなたの寝台の上で、新たな一日を迎えるのです」

 目の前の闇が取り払われ、フィーノは目を覚ました。カーテンの隙間から部屋に差し込む光に、朝であることを知る。ああ、ずいぶんと長く眠っていたような気がする。

 

 

 

 

 

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