3.川のほとりのこと

 川はあいかわらず流れていた。

 昔から町に住んでいる人間からすれば川は変わっていた。草木が覆い茂っていたほとりは護岸工事で固められ、ほんの少しの時間でも眺めていればすぐに魚の影が見えたのに今はその気配すら見当たらない。木々に止まっていた鳥の歌声も聞こえなくなった。川はあいかわらず流れていた。だが町の多くの人間にとって、そのことはどうでもいいことだった。町は大きくなり、人も増えた。川はあいかわらず流れていた。それだけだった。

 ヒアリスは川のほとりの道を歩いていた。一人で出歩くのはあまり好ましいことではないと知っている。夫も子供もいる女性が一人で人気のないところを歩いているのを見て口さがない噂を立てる人間もいるからだ。町に住んでいる人間みながそうであるわけではない。だがそういう人間もいる。それが町というものだった。

 ヒアリスは橋の上に立ち、川面を眺めた。自分が子供だった頃はこうではなかった、と思う。木々がざわめき、鳥が鳴き、魚の影が水面をかすめた。草の中に顔をうずめ、土の匂い、草の匂いを、いっぱいに吸い込んだ。だが今は、そうでない。

 遠い日のことを思い出したところで、目の前の現実は変えられない。

 流れる川を眺める。

「何かお悩みのようですね」

 かけられた声に顔を上げると、隣にはいつの間にか男が一人立っていた。瞬間、思い出す。夏の夕暮れ。赤い夕日。十八歳の一日。

 だが男は彼ではなかった。長く伸ばした黒髪をうなじの辺りで一つに結んだ、痩せた背の高い男だった。

「いえ、そういうわけでは」

 男を見たことはなかった。そのことが一瞬身構えさせた。

 男はどこかきつい印象を与える顔立ちだった。少なくともにこやかに笑って話しかければ何か相手に疑いを抱かせそうな……。

 だが男は笑っていなかった。怒っているわけでもなかった。無表情に近かった。だが無表情ではなかった。少なくとも、敵意は感じさせなかった。

「女性が一人、川面を静かに眺めていれば、悩みをお持ちかと思ってしまうものです」

 男がすっと右手でこちらを指した。ヒアリスはその手を見た後で、男の顔を見た。

「どなたですか?」

 警戒は解かない。人当たりのいい笑う銀行家夫人に口さがない噂はあってはならないのだから。

「クロトと申します。お見知りおきを、ヒアリス・エディル嬢」

 男は静かに頭を下げた。その名前は確かに自分だった。自分、「だった」。

「今はヒアリス・フラウトです、クロトさん」

「ああ、そうかもしれませんね。ですが私としましては、ヒアリス・エディル嬢とお話したいのでして……」

 言っていることは支離滅裂だ。ヒアリス・エディルは二十四年前にヒアリス・フラウトになったのだから。だがそう言う男はあいかわらずの無表情に近い表情だった。

「言っていることが分からないようですね、私は……」

「二十四年前にお会いになられた男のことを、申し上げに参りました」

 言葉を飲み込む。

 二十四年前。

「……何のことでしょう」

 それこそ醜聞だ。うかつに返事をして不貞と騒がれるのは不本意だ。だが男は、そこでやっと笑みを浮かべた。

「十八歳のあなたが、この川のほとりで、夏の夕暮れ時に、出会った赤い髪の男のことを」

 誰にも話したことがないこと。

 いや、それは違うと知っている。だがあそこで話を聞けるのは神父だけだったはずだ。ならば神父がこの男に話したのだろうか? 懺悔室で打ち明けられた話を? いや、それはない、と打ち消す。そんなことをすれば信頼を失うのは目に見えている。神父たるものが、秘密を容易に人に明け渡すようなまねをすれば……。

「フィエルド神父は無実ですよ」

 男は笑みを崩さないままにわずかに首を傾げて言った。それから上着のポケットを探り、そこから一つ、透明な小瓶を取り出した。小瓶には黄金色の液体が入れられていて、夕日に照らされ、たぷんと波打った。

「もしあの男にお会いになられたいのでしたら、夏至の夜、十二時の鐘が鳴ったときにこの薬をお飲みください。ああ、別に毒薬ではございませんので。もし必要ないと思われるのであれば、ドミニクにでも飲ませてやりなさい。ただしくれぐれも、人間には飲ませないように」

 家で飼っている犬の名前を挙げながら、男はすっと近づいてきた。思わず逃げようとしたのだが、足が動かなかった。男が手を取り、両手に小瓶を預ける。

「何なの?」

 やっと発せた声に、男は覗き込むようにこちらを見た。

「一体何なの? どんなことをしようというの?」

「まあ目的がないとは言いません。嘘をつくのは嫌いですから。ですがまあ私が今言えるのは、あなたがもし、あの男にお会いになりたいのなら、お力になれるということだけです」

「何なの? 何が目的なの?」

「ヒアリス・エディル嬢」

 男の目がゆるりと緩んだ。それは年長の男が聞かん坊の少女をたしなめるときに見せるような目だった。

「この世のすべてを知ることはできません。ただ、選択の余地はあるものです」

 小瓶を持つ両手を包み込んでぎゅっと握り締める。

「選びなさい。我が主がそれをお許しになられたのですから」

 男の目が揺らいだ。だがそれはすぐに、自分の視界が揺らいでいるのだということに気づく。そして次の瞬間には、男の姿は消えていた。誰もいなかった。

 両手を解くと、そこには黄金の液体が入った小瓶が残っている。

「何なの?」

 うめくように吐き出した言葉に、答えるものはなかった。風が吹きぬけた。

 

 

 

 

 

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