2.屋敷のこと
町のはずれの高台には、クウェイトという商人の大きな屋敷があった。彼は一代で財を成して、ここらでは一番大きな屋敷を建てた。だから、彼にはよからぬ噂がついて回った。あくどい仕事でもうけた金だとか、高利貸しで貧乏人から金を取り立てたとか、金持ちにはついて回るような噂が彼にも付きまとった。もっとも彼はそのような噂に心を痛めるどころか、自分が金持ちになった証拠だと喜んでいるような男だった。
屋敷には何人もの使用人が泊り込みで雇われていたが、多くはクウェイトに対してあまりよくない感情を抱いていた。それは給料のことや、若い女へのクウェイトの色目のことなどで、これもまたよくあることだった。
あまり屋敷を離れることのないクウェイトが旅行に出たのは一週間前で、珍しいこともあるものだと近所の人間は話した。もっとも、かつての悪事に足がつきそうになったから逃げ出したのだというものもいたが。
さらに珍しかったのはクウェイトが旅行に出た後に、クウェイトの友人という男が屋敷に現れたことだった。男はクウェイトと共にパーティに出ている写真を取り出し、またクウェイトの書いた手紙も取り出した。そこには、この男――ファッランディーノ・アルジェルダッドという、やたらと長い名前のこの男は友人であり、自分が旅行に出ている間、屋敷に滞在させてやってほしいという手紙だった。めったにないことに使用人たちはこの男が詐欺師か何かではないかと思ったが、写真も手紙も疑いようがなく、あきらめて屋敷へと招き入れた。
ファッランディーノ・アルジェルダッドというこの男はずいぶんと腰が低く、屋敷にあまりに多くの使用人がいることに仰天して、自分は静かに暮らすことを望んでおり、このように多くの使用人に囲まれることはあまり好まない、といった。しかし、といいかけた使用人頭に、彼はそっと小包を渡した。それを開いて今度は頭が仰天した。そこには大金が包まれていた。頭がファッランディーノ・アルジェルダッドを見ると、彼はにっこりと笑った。
ファッランディーノ・アルジェルダッドは黒髪黒目、年は三十後半から四十前半に見えた。筋骨たくましくはないが、やせぎすというわけでもなかった。いささか古風なスーツに身を包み、にこやかな表情でやわらかく話す男だった。
少しずつ使用人の数が減っていき、ついに使用人頭のみが屋敷に残った。言外に大金を要求した頭に向かって、ファッランディーノ・アルジェルダッドはにこやかに、やわらかに言った。
「金を求めるなら、金のあるところへ行くがいい」
そういったと同時に、頭はすでに屋敷の中にはいなかった。
それから一週間後、一人の男が水も食糧も得られずにほとんど死に掛けの状態ではるか北の町の銀行の、誰も入れるわけのない金庫の中で見つかった。男はクウェイトの屋敷の使用人頭だとしきりに言ったが、クウェイトの屋敷に問い合わせたところ、そのような男は知らない、とクウェイトの署名での手紙が届き、男はけっきょく何かしらの方法で忍び込んだが出られなくなった泥棒として警察に引き渡された。
「そのようなこと、私がどうにかしましたものを」
長い黒髪をうなじの辺りで結んだ、痩せ型の黒目の男の言葉に、ファッランディーノ・アルジェルダッドは笑いながら答えた。屋敷の一室、クウェイトの寝室に痩せた男は二つほどスーツケースを運び込んだ。ファッランディーノ・アルジェルダッドは豪勢にしつらえられた椅子に深く腰掛けている。
「お前たちにいつもまかせっきりというのもな。私が人と話せなくなっては笑い話だ」
「しかしわざわざこのような雑事もなされることはありませんよ」
「時には変化も必要だ。それに、自分の得たいもののために自分が動くことは決して間違いではないだろう?」
ファッランディーノ・アルジェルダッドは立ち上がると、すでにシーツもかけられた寝台へと歩み寄った。その寝台の上、シーツにしわを寄せて茶色の髪の幼い子供が丸まって眠っている。
「スタースはどうした?」
くるりと振り返って聞くと、痩せた男はスーツケースから分厚い紙と、ペンと、インク壷を立派なデスクに出しているところだった。
「あの獰猛な番犬たちをしつけているところですよ」
「今晩の夕食が犬のステーキということはないだろうな」
「保証しかねます」
やがて開いた窓から、屋敷に面した広い庭の彼方からの犬の悲鳴が続いて届いた。クウェイトの自慢の一つが、屋敷の庭に放たれた獰猛な番犬たちで、クウェイト以外には噛み付き、肉を引きちぎるまで離れないと近くの子供には恐れられている番犬たちだった。
やがて階段を上る音が聞こえ、寝室のドアが開けられた。
入ってきた赤髪赤目の、筋骨たくましい男は手についた煤をはたきながらやれやれと首をひねった。
「ずいぶんとしつけのなっている番犬でしたよ」
「夕食は犬のステーキか?」
ファッランディーノ・アルジェルダッドの質問に赤髪の男は顔をきょとんとさせたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「あんな犬、筋だらけで美味くないに決まってます」
スーツケースを閉じた痩せた男がスーツケースを部屋の隅へ運ぶ。
「夕食は近くのレストランから持ってきましょう」
「それなら三番地角のレストランからにしてくれ。つぶれてないはずだ」
はい、と頭を下げて痩せた男がすっと消えた。ざわざわと、庭の木が風にさざめいた。
ファッランディーノ・アルジェルダッドはゆっくりと窓に近寄り、外を眺めた。
「久しぶりだな、この町は」
遠く懐かしむような目で、高台から見下ろせる町の姿を眺める。
「そうですかね、なんか違う町に来たような感じがしますよ」
「それは否めないな」
赤髪の男の言葉に、ファッランディーノ・アルジェルダッドは笑みを浮かべた。
「あの番地の建物はすべて変わっていたし、川も護岸を固められていたな。あの山も、昔は木々で溢れていたが、今は荒れ山だ……」
ごそりと寝台の上の子供が身をよじった。
「人間も変わった。古き者たちは去り、新たな者たちは踏みにじる。変わらないのは夕暮れだけだ」
窓の外には、夏のどこまでも明るく照らすような夕暮れが見えた。
「その夕暮れも、遠くへ去っていく」
くるりとファッランディーノ・アルジェルダッドが向き直る。
「ファル様、影を忘れてますよ」
赤髪の男に言われ、ファッランディーノ・アルジェルダッドの足元にすっと長い影が伸びた。
「お前に気づかわれるようでは私も苦労しないな」
ふっと風が吹き、ドアが叩かれると先ほど出て行った痩せた男が給仕の格好で現れた。
「夕食の準備ができました」
「なら夕食としよう。あのレストランはつぶれてなかったな?」
「ええ、ですが支配人が変わっておりました」
「それはよくない知らせだ。食事が美味いことに希望をかけよう」
ファッランディーノ・アルジェルダッドと赤髪の男が連れ立って寝室を出る。寝台の上の子供は、またごそりと身をよじった。