1.懺悔室のこと
町のはずれにあるその教会は、決して人で溢れているわけではなかったが、寂れているわけでもなかった。
観光などで来る人などはいないが、町の人間はこの教会に親しんでいたし、何か小さな悩みを抱え、それを誰かに打ち明けたくなったときなどに、こっそりと向かう姿もないわけではなかった。誰もそれを見咎めてわざわざ言い立てることもなく、教会はひっそりと町のはずれにあった。
長い黒髪の、すでに四十に差し掛かったであろう女性が教会のほうへと足を運ぶのを見てそれを特に気にかけた人はいなかった。彼女が教会へと祈りに行くのか、それとも教会の片隅にある懺悔室に向かうのかを取り立てて気にする人もいなかった。
彼女は教会に入るとそこに人の姿がないのにほっと息をついた。それから少しためらうかのように見渡し、意を決したかのように懺悔室のほうへと向かった。
狭い懺悔室は格子戸で二分されており、その向こうには人の姿がなかった。彼女はもう一度息を吐き、自分の話を聞いてくれるその人物が現れるまで待つことにした。
「悩める方、お話を伺いましょうか」
格子戸の向こうからかけられた声に、彼女ははっと顔を上げた。格子戸の向こうにははっきりとは見えなくとも、それと分かる人物が、にこやかな笑みを浮かべて彼女のほうを見ていた。
教会の神父であるフィエルド神父は蓄えたあごひげと、柔和な顔つきで町の人の尊敬を集める人物だった。彼女は三度息を吐いて、静かに手を組んだ。
「聞いていただけるでしょうか」
「もちろん、私でよろしければ」
柔らかな声に安堵感を覚えながら、彼女は静かに切り出した。
「夢を見たのです」
「夢を?」
「はい、昔の夢を」
「それはどのような?」
「私が十八になった頃の話です」
私は十八になり、もう結婚の話が持ち出される年頃でした。人を好きになることもあり、それを恋だと思って生きてきました。そして両親から結婚の話を持ち出されたときも、それを致し方ないことだと思って受け入れようとしていました。
私はそれを逆らうことができないことだと知っていました。相手は……あなたもご存知の私の夫です。評判のいい人でしたし……実際、あの人はいい人なのです。ですから結婚の話は着々と進んでいました。もう少しすれば、あの人が私に結婚を申し入れ、私がそれを受け入れることが決まっていました。ええ、決まっていたのです。
結婚をすれば私はあの人の妻となってあの人の子供を産み、育て、いずれはあの人とも死でもって別れることになることを知っていました。ですがそれを憂うたところで、一体何になるのでしょう? そうだからといって断る理由にはならないのです。それは誰もが通る道でしょうから、私がそれを拒む理由にはならなかったのです。
ですから私はそれをそのまま受け入れるつもりでした。ですから、何の問題もなかったはずなのです。
あれは……夏の夕暮れでした。川の、ええ、町の近くを流れるあの川です、あの川のほとりで私は夕暮れを見つめていました。もうすぐ帰らないと日が暮れて、あまり年頃の女性が一人で出歩くにはよくない時間になろうとしていました。ですけど、あの日はとても夕暮れがきれいでした。私の知っている限り、もっとも美しい夕暮れでした。あまりに美しく、そして刻一刻と鮮やかに色が変わっていくものですから、私はすっかり見ほれていました。ですから、あの人がそばにいることにも気づきませんでした。
気づいたとき、あの人は私の隣にいました。すぐ隣というわけではありませんでしたが、隣にいました。あの人もまた、夕暮れを見ていました。それから、私のほうを見ました。
きらきらと夕日を受けて、あの人の赤い髪が輝いていました。あの夕日の色をそのまま写し取ったかのようにきれいな髪でした。そしてあの人の目も、きらきらと輝いていました。あの夕日の色をそのまますくい取ったかのようにきれいな瞳でした。私は驚いて、すっかりその人に見ほれました。年の頃は……私よりは上のようでした。でも分かりません。もしかしたらもう少し上かもしれません。
ともかく、私はすっかりその人に見ほれていました。その人も私のほうを見ていました。そして、きれいな夕暮れだな、と言いました。
あの人の名前は知りません。聞くこともできたはずですが、私は聞けませんでした。私は、ええ、と答えるので精一杯でした。
それから、あの人は立ち上がって、夕日を座って眺めていましたものですから、私もあの人も、それから、このあたりで一番大きな屋敷はどこかと聞きました。ええ、奇妙なことですけど、私は素直に町外れのクウェイトさんのお屋敷が、と答えました。ありがとうお嬢さん、とあの人は頭を下げて立ち去ろうとし、それからくるりと向き直って、お家までお送りいたしましょうか?といいました。
私は、私はずいぶんと驚いて、いいえ、けっこうです、と答えてしまいました。ええ、あのとき、ぜひといっていれば、あの人の名前や、そのほかのことも聞けたはずでした。ですけど私はずいぶんと驚いたものですから、そう答えてしまったのです。あの人はそのまま立ち去っていきました。もう夕日も沈んで、薄暗くなっていました。青色が塗りこめられたように、薄暗くなっていました。私は嬉しいような、悲しいような、そんな思いを抱えて、そのまま家へと戻りました。
ええ、あの人に会ったのはそれだけです。でも私は、はっきりと分かりました。ええ、恋です。恋だったのです。
ですが私は二度とあの人に会っていません。私は夫を大事に思っていますし、息子も大事に思っています。あの子ももう二十になりました。そろそろ独り立ちをと夫は考えているようですし、私もそれに反対する理由はありません。
……夢に見ることなどなかったのです。覚えてはいましたが、思い出すほどではありませんでした。時折不意に思い出し、言いようもなく切なくはなりましたが、けれどそうしてどうなるというのでしょう? 過ぎ去った恋は過ぎ去ったままです。取り返せるものではありません。
なのに夢に見たのです。あまりにもはっきりしていました。あの日のままでした。あの夕暮れもはっきりと見えました。あの空の色も、淡い青から群青へと変わっていくあの空も、そのままに。あの人の赤い瞳も、はっきりと見えました。ええ、どうなるというのでしょう、思い出したところで。なのにあまりにもはっきりと夢に見たものですから、朝から胸騒ぎがするのです。夫は仕事に出ておりますし、息子は友人と連れ立って舞台を見に行っています。胸騒ぎがするのです。何か、何かが起こるような……。
神父は何も言わずにじっと聞いていた。そして彼女が話は終わりというようにゆっくりと息をつくと、神父もまたゆっくりと口を開いた。
「かつての恋人を夢に見られたと」
「いいえ、恋人というほどでは、たった一度しか会ったことがないのですから」
「そうですか、しかし恋というのは忘れがたいものです。いくら過ぎ去ったことと思っていても、不意に思い出してしまうものです」
「ええ、ええ」
「ですから夢に見られたことも、思い出すことと同じこと。そうお気になさることもないでしょう」
「胸騒ぎがするのです」
「いきなり夢に見られて驚いていらっしゃるのです。少し経てば、落ち着かれることでしょう」
「そうでしょうか?」
「ええ、気にし続けていてはますます気になるだけです。今日はゆっくりとおやすみになることです」
「そう……そうですね」
彼女は自分に言い聞かせるようにうなずくと、小さく折りたたんだ紙幣を格子戸の隙間から差し入れた。神父がそれを受け取りわずかに頭を下げるのを見て、彼女は懺悔室から出た。
教会の扉が閉まると、懺悔室の反対側からゆっくりと神父が姿を現した。神父は何か面白がるような表情を浮かべて、教会の奥にある扉を開けて隣に立つ小さな家へと向かった。そこは神父が寝泊りし、日々神に祈るための寄る辺としている家だった。
神父が家に入ってまず目に付いたのは、食事のための小さなテーブルにうつぶせになっている男だった。神父がその男を仰向けにすると、その男の顔が見えた。男の顔は神父にそっくりだった。着ている服すら同じだった。
神父はゆっくりと左手を伸ばし、男の目を覆ってつぶやいた。
「フィエルド神父。今日という日は、十年後覚えているには値しない一日なのです」
そうつぶやいて神父は再び男をうつぶせにした。
神父は家を見渡して、それから扉を出た。
扉を出ると、もうそこには誰もいなかった。