鏡の海の

 

 

 少し寒い風が海から吹いて、小さな町を通り抜けて山へと這い上がってくる。小さな路地が風を山の上へと導いていく。その途中、石段に腰掛けた男を通り過ぎていく。

 今年の冬はあまり寒くなかった。男の視線は路地を抜けて山の麓の町へ至り、そしてその向こう側の海へと向かう。海の少し先を眺めれば、鏡映しのように海岸があり、町があり、山があった。鏡映しの世界の向こう側。そこにいるのだろうか、と男は考える。

 春が好きな女だった。春のような女だった。思い出せるのがただそれだけであることを、男は悲しくもあり、寂しくもあり、同時に、納得していた。結局のところ、それしか残らないのであれば、最初からそれでいい。自分の中に残る灯火を一つ一つ消していくよりは、一陣の風にかき消された灯火の中に残ったたった一つを、消さぬようにする方が男にはふさわしいように思えた。

 両脇を民家に固められた石段の路地を歩き始める。傾斜にあわせたように僅かに斜めになっている段は上りやすいが、時折休まないと息が切れてしまう。自分も年を取った。だがそれは時間が経った証ではない。経った時間など僅かだ。ただ最初から自分は老いていた。年を取っていた。それだけの問題で。

 海風が背中を押すように吹き抜ける。死んで、風になって、水になって、そうして全てに溶け込んでしまえれば。そんなことを呟く女だった。変わり者だった。それだけだった。それだけの。

 やがて違う路地に入る。少し歩けば、両脇に立つ塀が切れ、視界が一気に広がる。そしてその視界を遮ろうとするかのように、空に向かってまっすぐに立ついくつもの墓石。

 墓なんて要らない。ただ風になって、水になって、そうして全てに溶け込んでしまえれば、それでいい。形など残したくない。痕跡など残したくない。風のように吹き抜けて、水のように流れ落ち、そして何も残さない。そういう存在であれば。

 女の言う言葉の意味を、男は理解できなかった。

 この世に生きる限り、この世を生きてきた限り、何か形を、痕を、残す。それが当然じゃないかと訊けば、女はただ笑った。残したくない。そう呟く理由は分からなかった。それ以上、訊くこともできなかった。女の笑みが、それ以上聞くことを拒んだから。そして自分の心が、それ以上訊くことを恐れたから。

 俺の。

 心の。

 中にも。

 残したくないのかと。

 そう訊けば、女はどんな表情を浮かべただろう。想像もできない。想像の向こう側にある。どんな表情を浮かべて、どんな答えを出しただろう。それは自分の恐れた答えだったのだろうか。自分の予想とは反対の言葉だったのだろうか。答えはもうない。もう見つからない。

 もっと早くに出会っていれば。

 何かを変えれただろうか?

 もっと早くに出会いたかった。

 そうすればもっとお前を繋ぎ止めれたのに。

 女は笑う。出会うのに早いも遅いもない。一瞬でもずれてしまえば、それはもう叶わない。出会うのに早いも遅いもない。早ければ自分たちはすれ違っただけで、遅ければ遠くから見るだけで。そう言って触れた手は、冷たい自分の手よりもはるかに温かく。子供のようと笑えば、子供ですから、と女も笑った。

 その体温も、今は抜け落ちた。空の空き瓶のように、冷たい亡骸が残った。

 どんな思いでお前は風に溶けていったのか。水に溶けていったのか。冷たい風と冷たい水の中に。その冷たさがお前の体温を奪っていったのか。

 もっと早くに出会っていれば。すれ違うのみで。こんな思いをせずにすんだのだろうか。

 もっと遅くに出会っていれば。遠くから見るのみで。こんな思いをせずにすんだのだろうか。

 もう答えはない。答えは……最初からない。

 そんな問いに答えたところで、何も変わらないのだから。自分が立つ場所に、変わりはないのだから。

 喉をかきむしりたくなる痛みを。なぎ払いたい背中のざわめきを。失くすことはできないのだから。

「何で」

 呟く。

「何で」

 囁く。

「何で」

 呻く。

「何で」

 問う。答えは、ない。

 学校帰りの子供達がはしゃぎながら路地を走っていく。どこまでも遠い喧騒。世界が遮断された今は。

 鏡映しの世界の向こう側で彼女は笑っているだろうか。泣いているだろうか。どうしているだろうか。音のない映像だけの世界。表情は見えない。笑っているのか。泣いているのか。分からない。世界が遮断された今は。

 だけどそこには行けないだろう。自分はまだ行けない。最後の言葉に縛り付けられている限り。

「できるだけ多くのものを見て、聞いて、知って、できるだけ多くの人と会って、話して、笑って、そして」

 それから会いに来て。

 彼女の短い時間で見れなかったもの、聞けなかったもの、知ることができなかったもの、会えなかった人、話せなかった人、笑いあえなかった人、その全て。その全てを、彼女に伝えられるそのときまで。

 何故もっと、多くのことを伝えられなかったのだろう。自分が今まで見てきたもの、聞いてきたもの、知ってきたもの、会ってきた人、話してきた人、笑いあってきた人、その全てを。

 だけどその後悔は、ただ海から吹く風に押し流されていく。結局は、何もかも間に合わないのだと。

 だから、自分が見て、聞いて、知りうる全てを、自分が会い、話し、笑う人全員のことを、伝えられるように。この何もかも零れ落ちていく身体に潜めて。

 伝えようじゃないか。言えた言葉も、言えなかった言葉も、全て。

 

 

 

 

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