緑の葉のかぐわしい香の

 

 初めて見た姿なのに、怯えに満ちたまなざしをこちらに向けるニンフにはどこか懐かしい思いすらした。

 母に無理を言って常より早く戻ろうとした自分に、いつも地上と冥界の行き来に供してくれるヘルメスは不思議に嫌がった。それは駄目だよ、ペルセポネ。こんなことをしたら来年はもっと早く、もっと早くと言いだしてそのうち地上に帰らなくなっちゃうじゃないか。そんなのをデメテルが許すわけがないだろう。面倒なことに巻き込まれるのはごめんだと言わんばかりの表情に、自分はひるむことなく言い返す。お母様にはすでにお許しを得ているわ、これきりだというのも。そもそも、地上と冥界の行き来を供するあなたがお母様とハデス様の約束にあれこれ口出しする権利はないでしょう。そりゃ、ま、ね。ヘルメスが肩をすくめる。……そりゃそうだな。うん、僕がハデスと君のことにあれこれ口出しする権利はないな。その口ぶりに奇妙なものを感じたのは確かだった。だがそれを問い詰めるより先に、自分の口は違う言葉を発していた。なら連れていってちょうだい、冥界の奥、ハデス様のところまで。

 常より早く帰ってきた自分に、侍女たちが慌てふためく。まさかこのように早くお帰りになるとは思わず……。気まずそうに揺れるまなざしに、何かがあると気づかないほどに鈍でもない。何、何があるの、何が隠されているの。嵐のように屋敷の中を駆け回り、最後に回廊の端に所在なさげに宙を見つめていたニンフがこちらをびくりと見たことに覚えたのは、少なくとも何かはあった、自分の勘は当たっていたのだという、この場で覚えるにはあまりにも不自然な満足感だった。

 侍女たちが後ろから何か言おうとしたが、自分は振り向いてにこりと笑った。笑っただけなのに、侍女たちはいっせいに口をつぐんだ。それから、向き直る。図らずも捧げられる贄の如く青ざめるニンフに。

 何て方だろう、と思った。冥界に連れてきて、それで自分の手元に置くだなんて。自分のときとまったく同じやり方ではないか。自分の父でもあるゼウスが――嫉妬深いヘラの目を逃れるためとはいえ――あれこれ手を変え品を変えているのを知らないとでもいうのだろうか。そのゼウスの兄とは思えぬ、あまりにも単純なやり方ではないか。同じことをすればいいとでも思ったのか。何て方、何て方。

 あ、の、と微風が吹くような、それでも確かに発された声に、おや、と思ったのも確かだった。お初、に、お目に、かかります、ペルセポネ様。この状況、ためらいもなく近づいてきた女性が一体誰であるかを察せられないほどには愚かでないらしい。少なくとも、そんな頭の回らぬ者を連れてきたわけではないということに、再び不自然な満足感。我ながらおかしい。こんなとき何を思うかなんて決まっているはずだ。嫉妬に震え、目の前のこの今や息絶えんばかりに青白い顔に罵倒の声を浴びせかけ、呪いの一つでも投げつけてやるべきなのではないか? それなのに、自分の目はこのニンフの顔の向こうに、他のものを見ている。

 今頃冥界の王の座で、肘掛けに肘をついて物憂げに亡者たちを眺めているだろう夫を見ている。欲しいものを手に入れるためにはそんな不器用な方法しか取れぬ夫の姿を。ではその夫に怒りを覚えているのだろうか? だがそのようなものは、自分の心を、空の果てや海の底まで見通すかのように探っても見つからなかった。ああ、何て方だろう。その思いしかない。何て方だろう、こんな方法しか取れないのですか、ハデス様。謀られたのならまだ、偽られたのならまだ。だけど屋敷に留め置くとは、自分に見つけてくれと言っているようなものでないか。

「あの」

 もう一度声。そういえば存在を忘れていた。いつの間にかうつむいていた顔に自分が怒りを覚えているとでも思ったのか、ニンフは消え入りそうなまでに怯えていた。

「あなた」

 声をかけると、ニンフは肩を震わせた。微笑み、手を差し出す。姉が妹を落ち着かせるため触れるように。

「名前は」

「メンテーと、申します」

 少なくとも名乗ることを恐れぬほどの度胸はあるらしい。見目に寄らず芯が強いのかもしれない。それにまた、安堵を覚える。

「メンテー。あなたはどうしてここに?」

「地上にて友たちと遊んでいますところに、馬車を駆るハデス様が現れて、私を冥界へとお連れになりました」

 ああ、と心中で嘆息する。あの夫にしてはあまりにも目立ちすぎる所行。自分のときは母デメテルに露見するのを恐れるがごとく密やかに連れ去ったのに、それでは目ざとく耳ざとい神々の知れるところになるのは必然。ヘルメスが妙に渋ったわけだ。

「そう、怖かったでしょうね」

 頬に両手をそっと触れさせると、メンテーはびくりと震えたが、その手から逃れようとはしなかった。揺れるまなざしに浮かんでいるのは怯えか恐れか。どちらにしても自分は気にしなかったが。

「私も連れ去られてここに来たのよ。懐かしいわ」

 メンテーの唇が動くが、声は発されなかった。

「でも私はお母様のたっての頼みで地上に戻れたの。もっとも、九か月という限りはあるけども」

 そして不意に、このニンフはどうなるのだろう、と思った。一度冥界に連れ去られたとなれば、地上に戻っても元のように友たちの間に戻ることは難しいだろう。ああ、まったく無垢な方、そして、無垢が故に残酷な方。あなたは、欲しいもののためにそのような方法しか取れないのですか。差し出される石榴。渇きと飢えが癒されよう……そのあまりの無垢さに、決めた。一粒、二粒、三粒。そこまで食べて、顔を上げた。そして手を止めた。痛みに耐えるかのように、歓喜に堪えられないかのように苦しげなハデスの顔を見た時に、自分は決めた。この無垢さと共に生きるのだと。

「でもメンテー、あなたのようにか弱い身には、冥界はとても耐えうる場所ではないわ」

「では、地上に」

「いいえ、メンテー、私はあの方をよくわかっているわ。手に入れたいものはどうしても手に入れる方なの。ゼウスの兄、冥界の主、ハデス様ですもの」

 そして、自分はあの方が欲しいものを与えると決めた。その無垢さが求めるものを、自分は与えようと。それで、あの方の渇きと飢えが癒されるのなら。

「だからメンテー、私はあなたを『助ける』わ」

 目が見開かれた。その目に微笑みかける自分の顔が映る。メンテーには何が見えているだろう。頬から手を離し、とんっと突き飛ばすようにすればメンテーの体が反動でふらつき回廊の床に座り込んだ。そして、自分を見上げ、今度こそはっきりとした恐怖の色を目に浮かべた。回廊から庭へと転がり落ちるように自分から逃れようとするが、自分は迷わなかった。迷ってはならない。私は、冥界の主ハデスの妻ペルセポネなのだから。自分の足がメンテーのか弱い体を踏みつける。大地の女神デメテルの娘たる自分の足が。メンテーがか細い悲鳴を上げた。その悲鳴の端から緑色の葉が開く。自分の足の下から逃れ、まだ逃げるように遠ざかろうとするメンテーを、自分はもはや止めなかった。やがてそのか細い声が途絶えるころ、かつてメンテーと呼ばれたニンフは庭の隅で、小さな葉を輝かせていた。

 

 庭の隅で輝く小さな緑色の葉を眺めながら物思いに沈んでいても、背後からの気配を感じられぬほどには愚鈍ではない。わずかに振り向くと、長い金色の髪を垂らしたままペルセポネがほほ笑んだ。

「帰ってきていたか」

「ええ」

「先ほどヘルメスが来たからな、そろそろと思っていた」

「ヘルメスが御前に?」

 視線を地面へ、緑色の葉へと戻す。

「叱咤された」

 そう告げると、後ろで鈴を転がすかのような笑い声。

「面白いか?」

「いえ、目に浮かぶようで」

 そうか、と答える。

「お寂しゅうございましたか?」

 その言葉に、少しの沈黙の後、ああ、と答える。

「寂しかった」

「でもやり方というのがございますわ、ハデス様」

 何かを言おうとして口を開いたが、言うのをやめた。さわさわと風がそよぎ、妻の金糸のような髪もまたその風にたなびいている様を思い浮かべる。振り向けばそこにいるというのに、思い浮かべる。

「そうだな」

 やがてそう答えると、軽やかな足音が自分へと近づいてきた。

「メンテーが可哀想です」

 脇に立った妻を見下ろす。微笑みを浮かべている。それが決して無垢な意味ではないと今ではわかっているのに、同時にこの微笑みはどうしても無垢なものにしか見えなかった。これが自分の妻なのだということに、愛おしさと畏れを感じる。そしてあの乙女を今ここにいる妻にしたのが自分なのだと思うと、ほの暗い喜びと、哀しみが、胸を満たした。

「そうだな」

 屈みこみ、緑の葉に自分の青白い指を触れさせる。一度葉をその指でこすると、手を離して立ち上がった。不思議そうな顔をしている妻に、葉に触れた指を差し出す。ペルセポネがにこりと笑う。

「他の女に触れた手に触れよと仰いますか?」

 ぽかんと口を開ければ、冗談ですよ、とペルセポネが再び鈴を鳴らすような笑い声を上げた。それから指に鼻を近づけた。すん、と匂いをかいだ。

「いい香りですね」

 指をひっこめると、もう一度緑の葉を見下ろした。それからペルセポネの肩に手を回し、回廊の方へと導く。

「デメテルはさぞかし立腹しただろうな」

「来年が恐ろしいです」

 言葉の割には恐れてはないというような口ぶりに、自分はわずかに口角を上げた。それから一瞬、庭の隅、緑の葉が茂っていた辺りを見たが、それもまた一瞬、自分は目線を前に戻した。妻の肩の温かさと柔らかさを、自分のひんやりとした手の内に感じながら。

 

 

 

 

 

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