石榴よ癒せ
薄暗くも豪奢な部屋の中、緩やかで清らかな衣をまとった乙女が寝台の上に眼を閉じて横たわり静かに胸を上下させる様を、冥界の主はじっと眺めていた。だがその目には爛々と輝く欲望も穏やかに波寄せる愛情もなく、ただそこに命があることを知らせるだけのわずかな光がその目に宿っているだけだった。寝台の脇に置いた椅子に深く腰掛け寝台の上の乙女を眺める姿は、地上にあれば乙女の命を奪いに来たように見えたかもしれない。もっとも、同じようなものだ、という思いがあったが。
こうなることはわかっていた。姿を消した娘を求めて乙女の母は地上を歩き廻り、天界では混乱が起きていた。天界で地上へ実りをもたらすことをいくら乙女の母が深く自らに任じていようと、娘を案じる母に探すのを止めるよう呼びかけても無意味なのは明白だ。気ままな神々とはいえ、実りが絶え世の習わしが滅びることをよしとするわけがない。神々の長たるゼウスが使いを寄こすのは時間の問題だったことをわからぬふりができるほど、天界を離れこの冥界の主となって早幾年とはいえ察せられない自分ではない。
すまぬ、冥界の王よ、わが兄よ、乙女をデメテルのところへ帰してくれないか。
神々の長を、弟を、ゼウスを責めるつもりはなかった。たとえこの乙女を連れて行くよう自分を唆したのが彼だったとしても。デメテルの怒りは予想もつかなかったか、と皮肉の一言でも言ってやればよかったのかもしれないが、自分はただうなずいただけだった。それから微笑んだつもりだったが、ゼウスの言葉を運んできたヘルメスがひくりと口元をひきつらせたところ、笑みになっていなかったと見える。まあいい。笑うなど当の昔に忘れてしまったのだから構わない。だがたびたび自分への使いを務めるヘルメスですら浮かべたあの引きつり笑いに、この乙女が自分を見たときの驚きを、恐怖をおもわずにはいられなかった。穏やかな寝息。きっとあの吐息は春の野の花の香りがするだろう。それがどのようなものかは忘れてしまったが。その花の香りすらそばに置いておくことが叶わないのは冥界の主の定めか、それとも。
ヘルメスが去った後で部屋に入った自分を迎えたのは、寝台の上で眠る乙女の姿だった。無論その衣に乱れはなく、乙女の清らかさは変わらない。地の裂け目からその姿を見止めた時そのままの。柔らかな草で編まれたサンダルを履いた白く小さな足。春の野の花々はその足取りを喜んで支えていた。地の裂け目に水仙が咲いているわ。危のうございます、あのような岩場では足を痛めてしまいます。いいえ、大丈夫よ、あれを見せたらきっとお母様も喜ぶわ。あの白く小さな足がごつごつとした岩で傷つきやしないかはらはらと見守っていたのは供をしていたニンフたちだけではなかった。細くしなやかな指が水仙の花に触れる。おまえもここに咲くのに必死だったのでしょうけど、おまえはきっとお母様の冠に似合うでしょう。
いや違う、その花は、白い水仙は。
水仙を摘み取った乙女のサンダルが岩の上で滑る。ニンフたちの甲高い悲鳴。乙女は目を見開き、自分を飲み込もうとする地の裂け目をしっかりと見据えた。そして、自分を見つけた。腕を伸ばしてその体を抱き留めたとき、乙女は目を真ん丸にしたまま、その手に水仙をつかんだまま、ぽかりと口を開けた。その体を降ろすことなくひらりと身を翻して地の裂け目の更に深くへと飛び込んだ自分と乙女を、ニンフたちの声が追う。
私たちの主が、ゼウス様とデメテル様の娘様が、地の裂け目に飲み込まれた、デメテル様が嘆かれよう、嘆かれよう、大地よもし心あるなら吐き出すがいい、さもなければ草花は頭を垂れ、地に実りは訪れない、デメテル様が嘆かれるが故に!
何故?とゼウスが言った。その乙女を恋うたのなら、それを手に入れるのに何をためらう? わが兄ながら、恐ろしく奥手なことだ。
神々の長の顔。初めて見たときそのままの自信と威厳。父の臓腑から吐き出されて初めて見た弟の顔。この末弟が長として君臨するだろうことをそのときに悟った。思うところがなかったとはいわない。だが、覆しようのないもの、神々の身をもってして逆らうことのできない流れ、そういうものがあることを、神々の身であるからこそ知ることもできるというものだ。時として人が神々の勝手を嘆くのを耳にしても、自分はただ超然と冥界の主の座に腰掛けたまま何も言わないでいる。知りうることしか嘆けないものだと思いながら。
冥界の主となってどれほどの月日が流れたのか。黒く渦巻く死者たちの流れを眺めながらどれほどの歳月を過ごしたのか。冥界の主としてここを離れることははばかられる身、時として地の裂け目から空を眺め天界を望む自分の目に、あの乙女の姿が入ってきたのもまた、神々をして避けがたい何かだったのか。
半ば呆然とそうした思考に身を委ねている内に、寝台の上の乙女が身じろいだ。細く紡がれた金糸のごとき髪が流れ、乙女がゆっくりと体を起こす。気だるげというように開かれた目がこちらを見る。まだ半分夢の中にいるようなまなざし。
「目覚めたか」
冥界という場所柄か、情けなくも死を受け入れられない死者をたびたび叱咤するためか、地の底から響いてくるというにふさわしくなった自分の声を気にすることなどほとんどないのに、この乙女に声をかけようとするときは自分の声がそうでないようにと願ってしまうのは浅ましいのだろうか。乙女がふんわりと笑う。まだ半分眠っているのかもしれない、と考える。
「さきほどゼウスから使いが来た。デメテルが君を探している」
お母様、と夢見心地の中で乙女が母を呼ぶ。乙女が母に手向けるために摘んだ水仙はこの寝室を飾っている。白い水仙。乙女の母にではなく、この乙女にこそ似つかわしい。だが自分はその花をその頭(こうべ)には飾れない。あの髪に触れたなら、この手は焼き切れるだろう。恋の炎はこの薄ら寒い冥界に慣れたこの身にはあまりにも熱すぎる。
「母上のところへ戻してあげよう……ここに、君は馴染めないだろうから」
飲み物も食べ物も勧めなかったのは、歓待の気持ちを持たないからではなかった。こちらを見る目。どうすればこの目に、声をかけられるのだ。さあこれをお食べ、そうすれば君は、もうこの冥界の住人なのだ。どうやって? 今こうして話ができるのも、まだ乙女の目に宿る光が夢見るように揺らいでいるから。その光がはっきりとこちらを射抜けば、もう、何も話すことはできない。その目が発する問いに、答えることはできない。どうして自分を連れてきたのか。どうして自分を帰さないのか。どうして。
こうして何もせずにただ、互いの姿を見て、何も言えぬままでいるのか。
乙女がほほ笑む。その笑みの意味を、自分は捉えられない。
「帰れるのですか?」
その問いにうなずく。
「帰してあげよう」
「それでよろしいのですか?」
目を見開く。だが乙女は先ほど告げた言葉などなかったかのようにただほほ笑んでいる。いや、乙女は言わなかったのかもしれない。それでよいのか、兄上。武勲も地位も申し分ない方、そのお方が、恋うた乙女におびえるのか?
そうだな、と心中で笑う。おびえているのは自分かもしれない。あの髪に触れたなら、恋の炎は冷え切った自分の身を燃やし尽くすかもしれない、その夢想におびえているのかもしれない。
椅子から立ち上がり、寝台の脇の机の上に置かれた籠に盛られた果物の中から、石榴を取る。それを手に椅子に戻ると、乙女は不思議そうに自分の挙動を見守っている。
「しかし歓待もしなかったとは、冥界の主は吝嗇よと侮られるかな」
「そのようなことは……」
「歓待には程遠いが、何も与えずに帰すのは忍びない。食べるといい、渇きと飢えが癒されよう」
そう言って差し出した石榴を受け取らなかったとしても、それを責めるつもりはなかった。それならばよいのだ。むしろ、受け取らないことを望んでいたのかもしれない。
だから乙女の細く白い指がそっと石榴に触れ、それを自分の手から取り上げたとき、自分の心の内に起こったざわめきを、言い表す方法は見つからなかった。
「ありがとうございます、ハデス様」
初めて自分の名を呼んだそのさざめきに、凍てついたとばかりに思っていた自分の心に起こったざわめきを、言い表す方法は見つからなかった。
石榴は渇きを癒すだろう、飢えを癒すだろう。この冥界に連れてこられて早幾日、いくら神々の身なれども永久に何も食べず何も飲まずにいられるわけではない。乙女の渇きは癒されよう、飢えは癒されよう。ペルセポネが石榴にかじりつこうと口を開く。
だが、私の渇きと飢えは?