花吐き

 

 こほん、と一つ小さい咳。

 口元に手を当ててこほんこほん、と二つ小さい咳。

 顔を覗き込んで水がいるかと訊けば、彼女は首を振る。

 こほんこほん。

 口元から外した手から何かが零れ落ちる。

 赤い花びら。

 

 それは赤くゆったりとしたフォルム。手の中に収まる大きさのそれ。手から滑り落ち床に転がるそれ。白いシーツの上に転がり落ちるそれ。散らばった血の痕を思わせる。

 

 異状はないと医者は言った。異状はありません。しかし事実として零れ落ちる花びら。昔読んだのは肺に蓮が咲いた恋人を持つ男の話。彼女の肺に花は咲いていない。だけど零れ落ちる花びら。異状はありません。医者はカセットテープのリピートボタンを押されたように繰り返す。ただ咳をして、花びらを吐き出すだけ。零れ落ちる花びら。それは手品を思わせる。だが種はない。零れ落ちる花びら。

 

 咳が酷くなり彼女は床についた。何度も咳き込み、何度も枕元に赤い花びらを散らばせる。花びらと分かっていても白いシーツの上に転がるその赤さはぎょっとさせる。白と赤。鮮烈過ぎる印象。

 

 零れた花びらを集めて捨てれば、手に残るのは甘い香り。

 

 この甘さは一体何なのだろう……血のあの錆びた匂いと違う甘さ。彼女の中から吐き出されるこの甘さは。

 

 彼女の体に流れる血はあの甘さを伴っているのか……そんな錯覚。彼女の体に流れる血が固まり柔らかな花びらとなって吐き出される。そんな錯覚。彼女の手の血色が悪くなっていく。笑みに力がなくなっていく。零れ落ちる花びら。甘い香りは強くなる一方。彼女の中から抜け落ちるものは何? 血。もしくは甘さ。彼女の体の中は一体どんな香りに満ちている……それは噎せ返るような甘い香りか。いや、違う。それは微かな甘さ。甘い香り。だけどそれすら抜け落ちていくのだろうか。いつの日か彼女から抜け落ちていくのだろうか。そして彼女自身も。

 赤く波打つ血が固まり、柔らかな花びらとなって吐き出される……失われたものは帰ってこない。血も。花も。香りも。そして彼女も。

 

 最後の花びらは目に映すのも忌々しいほどの赤さ。

 

 棺の中は白い花で埋めよう。だが彼女から染み出す赤さが赤く染めるだろう。棺の蓋を閉じられてからそれはじわじわと染み出すだろう。土の中に収められる頃には彼女の周りは赤い花びらが埋め尽くしていることだろう。そして何年か経ち、掘り出され、棺の蓋が開かれれば、残っているのは白い骨などではない。赤い花びらが棺を埋め尽くしているはずだ。零れ落ちそうなまでに。そして外気に触れた花びらは枯れ落ちてしまうだろう。そんな錯覚。夢想。だが現実として残ったのは彼女が抜け落ちたという事実。手の中の赤い花びらが墓地の白い敷石の上に零れ落ちる。血の痕を思わせる。

 

 誰もいなくなった部屋の中で一人咳をする。口元に手を当てて咳をすれば、自分の手の中に赤い花びらが一枚。

 

 それは腐った花の匂い。

 

 

 

 

 

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