金の矢の鏃から血が一滴落ちたなら

 

 寝台の上で不安そうに座っている乙女の姿を目にして、密かにほほ笑む。密かにほほ笑んだのは、相手にそれを気取られるかもしれないと思ったからだった。乙女の目に自分の姿は映らないとわかっているのに。寝所は薄暗い。寝台の脇の机に置かれた燭台の炎はすでに吹き消されている。自分を待つときは灯りを消しておいておくれ、そう最初の夜に教えたままに。

 風に吹かれたかのように、だが風に吹かれたわけではないのだとわかるほどに大きく寝台を囲む薄布を開けると、乙女がはっとこちらを見る。見えない自分の方を見る。動いた薄布の方向をただ見ているのだと知っているのに。

「いらっしゃったのですか?」

 確かめるように声を発する。何故なら、自分がいることを彼女が確かめられるのは声だけなのだから。

「来たよ、プシュケ」

 名前を呼ばれ、乙女がほっと息を吐く。最初は名前を呼ばれるたびにその声の発された元を探してあちらこちらを見ていた乙女の姿を思い出す。姿が見えず声だけ聞こえる侍女たちとの傍から見れば不可解なやりとりにも今は慣れてきたようだ。そして、自分が名前を呼ぶことにも。

 寝台の上に膝を乗せて体重をかけると、寝台は目に見えて沈み込んだ。乙女はそれを不思議そうに、だが驚いた様子もなく見ている。

 どうしてお姿をお見せにならないのですか? そう訊いてきたのは、乙女がここにやってきた最初の夜だった。そうしなければならないのだよ、お前はまだ、私の姿を目にしてはならないんだ。どうしてです? どうしても。だが時が満ちれば、私はお前の前に姿を現すよ。その時が来ればね、プシュケ。名前を呼ばれ、乙女は肩を震わせた。姿の見えぬ夫という奇怪な存在が、自分の名前を呼んだことに驚くように。

「お待ちしておりました」

 その言葉がただの社交儀礼なのだとしても、自然笑みが口元に浮かんだ。愛する乙女が自分を待ちわびているという感覚は、これほどに甘美なのかと。このような甘美な思いを人の胸の内に宿らせる術を持ちながら、自分自身はまったく知らなかったなど、思えば皮肉な話ではないか。それがたとえ、金の矢の鏃で親指を傷つけてしまった、それだけのことで湧き上がったものなのだとしても。

 私のかわいい息子、私がこの世で一番美しい女性であることを、お前はよもや疑いやしないだろうね。もちろんです、お母様、お母様ほど美しい方はこの世におられません。そう、お前はよい子。それにつけても地上の人間は分かっておらぬ。天上にて美を讃えられる私を差し置いて、地に住まう姫をこの世で最も美しい女性と囃し立てる。私を美で上回るなど地上の人間に叶うものか。あの姫をどうすればよいものか。そうだ、いくら美しい器でも、濁った水を注げば美しいと人は思わない。いくら美しい姫でも、下劣で下賤な男を伴侶とすれば美しいと人は思わない。私のかわいい息子、お前の金の矢の出番。お前の金の矢であの姫、プシュケを世界で最も下劣で下賤な男へ嫁がせなさい。わかりました、お母様、この世で最も美しいお母様。

 宮殿での生活のこと、宮殿を囲む草原の美しい草花のこと、されど常に一人のままでは寂しかろうとここへと招いた二人の姉との喜ばしい再会とたわいない会話のこと……とりとめもなく話すうちに、乙女はうとうとと頭を揺らし始めた。

「久しぶりに姉君たちと会って疲れたろう。ゆっくり眠るといい。私が見守っていてあげるから」

 そう促すと乙女はこくりと頷いた。寝台の上に身を横たえ、目を閉じる。やがて健やかな寝息が聞こえ始め、知らず目を細めた。

 お母様、この世で最も美しいお母様。あなたは美しい。本当に美しい。あなたの美を疑う者は、あなたの怒りを買う。それはもっともです。何故ならあなたはほかならぬ、美の女神アフロディテなのですから。けれどお母様、私の目にはどうしても、この乙女が一番美しく見えるのです。この乙女が愛しいのです。

 世界で一番下劣で下賤な男を探すのはどこでも何でも知っているヘルメスの助力を仰ぐとして、まずはその姫の胸を射ようと矢立から金の矢を取り出す。これに射られ傷を得た者が覚えるのは恋の痛み。地上に目線を走らせれば、狩人が地の果てに動く点が獲物であることを知るように、その姿を見止める。乙女がこちらに背を向けて姉二人と和やかに語り合っているのが見える。これから自分に何が降りかかるかも知らず、これから自分がいかなる運命を辿るかを知らず。その姿を見ながら弓に矢をつがえようとしたとき、痛みが親指に走った。手慣れたこととはいえよそ見をしていて自らの指を傷つけるとは……。金の矢の鏃からぽたりと自分の血が落ちる。だがまずは乙女の胸に矢を射なければ。矢をつがえる。狙いを定める。乙女が、こちらに背を向けて姉二人と話していた乙女が不意にこちらへ振り向く。こちらを、見る。その目には見えぬはずの自分を、見た。

 矢が弦を離れた。狙いに違うことなく、金の矢が乙女の胸に飛んでいく。その胸の内に吸い込まれていく。その様子をぼうっと眺めていた。親指の痛み。血が親指の先に玉になっている。その血をなめる。傷に触れる。傷? 金の矢に射られ傷を得た者は……傷を得た者は……。

 その瞬間、自分の過ちを悟る。だが遅い。もう遅いと、自分でわかっていた。

 次の瞬間にどこからともなく姿を見せたヘルメスへと向き直る。ヘルメス殿、すまない、頼みごとがある。神託の神アポロン様にお目見えできるよう計らってくれないだろうか。不思議そうな顔をするヘルメスと、ヘルメスと共に現れた自分に不思議そうな顔をするアポロン。まあいい、アフロディテの頼みか何かのようだしな。神託において伝えよう。その乙女、花嫁衣裳を纏わせて、山の上へ置き去りにせよ。この世で一番恐ろしい、神々をさえ怖れさせるものが、その婿になる故に。まったく、女の考えることはよくわからん……。

 神々をさえ怖れさせるもの。その胸に自分が金の矢を射たアポロンが、たとえ拒まれようとニンフの後を限りなく追ったのを見たではないか。妻たるヘラの怒りに触れようが何だろうが、目を留めた乙女を諦めることは決してないゼウスの様を見たではないか。それがどのように人を惑わせ狂わせるかを限りなく見てきたではないか。それなのに、自分は知らなかった。この世で一番恐ろしい、神々をさえ怖れさせる、恋というものが一体どのようなものであるかを……。

 乙女の寝顔を覗き込む。美しい顔。息を吸って、吐いて。その様は蝶が翅を揺らす様を思わせた。どこぞと知れぬ遠いところへ乙女が嫁いでいったことに母は満足しているようだった。いずれは露見しようが、しかし、自分の元となれば母であっても手出しはできまい。いつの日かは乙女が自分の姿を見ることもできよう、誰の元へ嫁いできたのかわかるだろう、自分の夫が愛の神エロスであることを知ることになろう。

「おやすみ、私の愛しいプシュケ」

 その言葉を発すると共に、同じように寝台に身を横たえて、眠りへと落ちる。

 

 静寂と暗闇と、その中でプシュケは胸の内で打ち鳴る心臓の音を聞いていた。その鼓動はあまりにも強く、胸の内がずきずきと痛むかのようだった。

 久方ぶりに会った姉たちは、自分の生活に驚いた様子だった。美しい土地、きらびやかな宮殿。口々に羨む言葉を発する姉たちに、自分は胸の内の不安を吐き出した。けれどお姉さま、私の夫という方は、姿は見えず声が聞こえるのみ。侍女たちがそのような有様なのには慣れてきたけれども、夫ともあろう方がそうなのは、私には恐ろしいことに思えてならないの。元より神託には、この世で一番恐ろしい、神々をさえ怖れさせる者とあったのだから。ああ、何てこと、可哀想なプシュケ。きっとその方は見せてはならぬ姿をしているのよ。お前が恐れて逃げ出してしまうような姿なのよ。でもその方は、時が満ちれば姿をお見せになるとも言っていたの。時が満ちれば? それはいつかしら。そうきっと、その方は大蛇に違いないわ。お前が気を許して、そうしてふくふくと肉をつけてきたころに、一口でお前を飲み込んでしまおうという算段よ。どうすればいいの、お姉さま。怖がらないで、プシュケ。私たちの元へ戻ってくればよいのだから。でも、どうやって。その方は夜寝所に参られるの? ええ。その方は夜寝所でおやすみになるの? ええ。じゃあ簡単よ。その方が眠っている間に、一思いに剃刀で首を切っておしまいなさい。そしてこの宮殿を出て、山を降りなさい。ええ、振り返らずに、決して振り返らずに。

 目を開ける。薄暗い寝所。自分の背の向こうに、夫たる方が眠っているのを感じる。目線をわずかに上げれば、寝台の脇の机に置かれた燭台。剃刀は枕の下に忍ばせてある。目覚めさせぬよう体を起こし、そっと薄布をめくって寝台から滑り降りる。燭台へと歩み寄り、蝋燭にそっと火を灯す。手に持つ剃刀がかたかた震えているのが、明るくなった視界に映る。怖がらないで、プシュケ。お姉さまたちの元へ戻るには、こうするしかないのだから。大蛇から逃れるには……。

 けれど大蛇は、あんなに優しく話しかけるのだろうか。いいえ、プシュケ、優しく声をかけてお前が気を許すのを待とうという算段なのよ。さあ一思いに、一思いに。大蛇はあんなに優しく話しかけるのだろうか。おやすみ、私の愛しいプシュケ。あんなに優しく……。

 振り向く。燭台を手に、剃刀をもう片手に。揺らめく炎に照らされて寝台が見える。もう一度薄布をめくって寝台の柔らかな布地の上へ膝を置き、夫たる方がいるあたりへと、恐る恐る燭台を持つ手を伸ばす。そして光の輪の中に、こちらに背を向けて眠りこむ、きらめく金髪を持つ青年の姿が現れる。

 意外な光景に思わず膝を進め身を乗り出す。背に隠れていた顔を覗き込む。そして、穏やかな笑みを浮かべて眠っている、この世のものとは思えない美しい顔を見た。唖然としてその顔を見つめる。大蛇ではない。だが、恐れて逃げ出したくなる気持ちはわかった。胸の内で先ほどまで不安と恐怖に高鳴っていた心臓は今、驚愕と、言いようのない何かのために高鳴っているのだから。その高鳴りに、胸が傷を得たかのように痛むのだから。

 私の愛しいプシュケ。この方の唇が、その言葉を発していたのだ……。

 そう思った瞬間、手が震えた。その震えは、その手に持つ燭台へと伝わり、そして、蝋燭からぽたりと蝋が落ちる。安らいだ眠りの中にいる夫たる方の、肩に。

 

 

 

 

 

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