迷宮の王女の異説

 

 アテナイの王子テセウス、故国の七人の少年と七人の少女がクレタの王ミノスの命により召し出され、ラビュリントスなる摩訶不思議な迷宮の内に潜むミノタウロスなる怪物の贄とされるを嘆き、自らその怪物を倒さんと欲し贄の子らと共にクレタへ赴くことを父に申し出る。アテナイの王にしてテセウスの父アイゲウス、子の望みに驚くも、怪物を倒して後アテナイへと帰還せし時は必ず白き帆を掲げんことを約させ、子をクレタへと送り出す。

 贄の子らと共にクレタに着きしテセウス、果たしてラビュリントスへ送られる運びとなるも、テセウスの姿を垣間見たクレタの王女アリアドネ、その凛々しい姿を見初める。美しく髪を結いしアリアドネ、密かにテセウスの元を訪れ、きっと贄から外させることを申し出るも、テセウス、自らの身を名乗り、ラビュリントスへ入りミノタウロスを倒すことが望みと告げる。テセウスの望みに驚くもアリアドネ、ラビュリントスを作りし類い稀なる工匠ダイダロスから助言をもらうと約す。ラビュリントスより抜け出す策を尋ねられしダイダロス、かの奇怪にて恐ろしき迷宮を造り上げし巧みにして優しき指先で、蟻を捕えて細き糸を結び、蝸牛の殻の中へと歩ませる。かくして糸玉にて迷宮を脱す策を授く。

 アリアドネから糸玉を与えらしテセウス、ラビュリントスの奥深く、人の肉を喰らいて生きるという牛頭人身のミノタウロスとまみえる。この異形たる王子を害したテセウス、糸を辿りてラビュリントスを脱す。テセウスの姿を再び見たアリアドネ、もはや自らがクレタに留まることはならず、アテナイへと同行することを望む。かくしてテセウス、アリアドネを連れてクレタを出る。

 アテナイへと向かうテセウスの船、幾日もの航海の後、ある島へとたどり着かん。

 

*****

 

「ねえお姉さまお姉さま、アテナお姉さま」

 ふわふわと浮ついたような声音で自分を呼ぶ声の方へ振り向き、アテナは顔をしかめた。赤らんだ頬とわずかに潤んだ眼を向ける麗しい少年の姿は、地の乙女ならばきっと頬を染めて眼差しをそらしただろうが、常のように猛々しくも凛とした鎧兜に身を包んでいるアテナはただ口を開いただけだった。

「何だ、ディオニュソス」

 各地を遍歴して回る彼の姿がアテナの屋敷に見えるとは珍しい。だがその珍しい客人をとりたてて歓迎するつもりはアテナにはない。嫌っているわけではなく、ただこの捉えようのない神に対する一種の警戒心がいまだ解けないだけだった。なるほど、父の頭から生まれ出でた自分と父の腿から生まれ出でた彼、少しは通ずるところでもありそうなものだが、あいにくそのようなことはない。時には赤子、時には幼子、時には若者、時には有髭の青年、そうしたこの変容する神にはどこか他の神々とは違う雰囲気があり、それがまたこの神に対する人々の信仰を―――盲信を、かきたてるとアテナは知っている。

 木蔦の冠を被ったディオニュソスはあどけなくふんわりと笑う。

「アテナイの守護者たるお姉さまにお願いがあって」

 姉にたわいもないことをねだるかわいらしい弟の姿、なのかもしれないが、アテナは反対に自分の身に緊張が走るのを感じた。アテナイの守護者、とわざわざ言ったからにはあの街―――自分の街に何かしらの用があると見える。

「お姉さまも知っているよね、僕の好きなナクソスの島。歌い踊りながら盃を交わし鳥も魚も獣も草も花も木も僕と共に戯れ遊ぶ、あのナクソスの島」

 頷き、続きを促す。

「あの島に、ある船がたどり着いたんだ。彼らは魚を採り鳥を狩り草を踏みつけ木を切った。聞くところに寄るとその船を統べるはアテナイの王子テセウス」

 ため息をつく。

「お前とはいえ、アテナイの王子を罰するのであれば私も黙ってはいないが」

「やだなあお姉さま。僕を侮られたのならそれ相応の罰を与えるけど、僕の好きな島を少し……ほんの少し踏みにじられたからといって、船を沈め従者を海豚に変えアテナイの王子を海の泡に変えようだなんて思いやしないよ」

 つまり考えたんだな、と内心で付け加えて、威嚇にならぬとは知りながらも腕を胸の前で組む。

「言っておくがテセウスにも周りの者にも船にも手は出させぬぞ。あれはアテナイの王子、栄えあるアテナイを背負う者。船出したときからその身に傷一つなく、欠けたるものもなく、アテナイへと帰還しなければならないのだ」

「それは違うよお姉さま。船出してから身に傷一つなく、欠けたるものもなく、でも一つ加わったものがあることを、お姉さまも知っているでしょう?」

 目を細めて問うディオニュソスに、アテナは少しの間を置いて、頷いた。

「お姉さまもわからないわけじゃないでしょ。クレタの王女、アリアドネ。アテナイの王子テセウスが異形とはいえクレタの王の血を引く者を害し、ついにはクレタの王女も連れ帰る……それがどういうことになるか、聡明なるお姉さまならわからないとは思わないけど?」

 その口ぶりに徐々に苛立ちを感じながらも、アテナは心中ディオニュソスに同意した。異形なれどもクレタの王子たる者を害し、あげく王女を攫うとは、クレタの人々が黙って見過ごすわけがない。もちろんアテナイの守護者たる身としてテセウスの肩を持つ気ではあるが、とまで考えたところで、アテナはああ、と得心したかのように声をあげた。その声にディオニュソスが、信者たちが見れば心をとろかしただろう笑みを浮かべる。

「僕の好きな島を踏みにじったとはいえお姉さまの守護するアテナイの王子、手出しはしない。いや、テセウスが身に傷一つなく、欠けたるものもなく、アテナイへと帰還することを、僕が確約する。ただ一つ、船出したときから一つ加えられたものを、僕がもらい受けたならば」

 アテナはディオニュソスから目線を外した。

「だが私は何もできないぞ」

 仮にもアテナイの守護者、いくら存外のことをしたからといって自分の意向に明らかに背いたわけでもないアテナイの王子に罰ともとれかねない措置を下して、アテナイの人々の不信を煽りたてるようなことはしたくない。と、鈴を転がすような声音でディオニュソスが笑う。

「そこまで求めはしないよ。ただ約束を、承認を、取引を、望んでいるだけ」

 柔らかく笑むディオニュソスの目の奥に冷たく光るものを見て取り、アテナは心中ため息をつく。結局のところ、手に入れたいものを手に入れることに関してはやはり父ゼウスの子よと納得せずにいられないものがある。ヘーラーの奸計によって身を焼き尽くされた母セレネを冥界から引きずり出したように。

 ディオニュソスに向き直る。

「テセウスと他の周りの者と船には手を出さないと約せ」

 その言葉にディオニュソスがにっこりと笑った。美しい笑み。その笑みが心の内に入り込めば、それは水に一滴落ちた葡萄酒と同じように混ざり込み、一滴の葡萄酒以上にその心を酔わせるだろう。アリアドネもそうなるだろう、と一瞬憐憫にも似た感情がアテナの心をよぎった。

「テセウスと他の周りの者と船には手を出さないと約す。ただ一つ、クレタの王女アリアドネを、僕がもらい受ける限りにおいて」

 ディオニュソスがひらひらと歩み出す。横を通り過ぎようとするときに、声をかける。

「で、誰に頼むつもりだ?」

「アルテミスお姉さまに。清らかな乙女が恋情故に国々を乱しかねない咎を犯すとなれば、お姉さまに頼むのが道理と思って」

 ディオニュソスを気に入っているアルテミスなら彼の頼みも聞くだろう―――それもディオニュソスが言ったような道理となれば。ディオニュソスがそのまま歩み去り姿を消すと、やがて突然沸き起こった騒々しく不調和な音楽の中、群れなす何十人もの人々が歓喜か狂乱かわからずあげる叫び声が屋敷の外から遠ざかっていくのをアテナは聞いた。

 

*****

 

 島にてさらなる船旅に備える中、慣れぬ長旅ゆえかアリアドネ、何かに撃たれたかのごとく倒るる。驚きてテセウス、船出を遅らせアリアドネを看るが、臥せたアリアドネ、その甲斐なく見る見るうちに弱る。アテナイより従いしテセウスの従者たち、アリアドネが流行り病に罹りしことを恐れ、テセウスにアリアドネを島に置き去りにせんことを進言す。その進言に憤りしテセウスに、病の床のアリアドネ、自らは島に留まりテセウスらは船出するよう申し出る。曰く、愛しきテセウスの故国を見る望みを持って伴するも、もはやこの身ではアテナイまでたどり着けず。死して朽ちる姿をさらすよりは、せめて息のある内の自らの姿をしかと思いに留めて、テセウスがアテナイへと帰還せんことを望むと。嘆けるテセウス、命の恩人であり愛するアリアドネを置いていくこと二度拒むも、アリアドネの三度目の頼みについに屈す。涙を隠せぬテセウス、せめてもと自らのマントをアリアドネに渡し、アテナイへと船出することを告ぐ。

 テセウスのマントに身を包みしアリアドネ、テセウスの船の遠ざかるを眺むるために岩礁へと上る。テセウスが船を引き返し頑として自らを連れていくことをしばし夢想するも、船の姿が波の向こうに消えしとき、まことに夢想であったと悟る。横たわりて気の遠くなる中アリアドネ、幾人もの人々が楽を奏でつつ歌い、にぎやかに楽しげに来るを聴くも、確かむるため目を開く力はすでになく。

 

*****

 

 潮風に吹かれていたためか色も褪せほつれも見えるマントに身を包んで岩礁に横たわる乙女の姿を見て、豹に牽かせた馬車の上のディオニュソスはすっと手を振った。それに合わせてディオニュソスに付き従う者たちはぴたりと楽も歌も止めた。

 身にまとうわけでもなく脇に置いていたマントを手にディオニュソスが馬車から降りる。ざわざわと草がその足に触れるが、その足は地に触れず、その足が草を踏み潰すことはない。やがて乙女の傍らに立つとその場にかがみこんだ。

「さて」

 乙女は目を閉じたまま身じろぎもしない。古ぼけたマントをぎゅっと握る手を、ディオニュソスはそろそろとまるで葡萄を摘むときのように優しく、だがしっかりと解いた。ゆっくりとマントをその身から剥がすと、少しばかり考えて、ぱっと海の方へと放った。ふわっと広がったマントが風に乗って海の水面へと落ちていく様を見届けることもなく、ディオニュソスは手にしていたマントで乙女の体を包んだ。その様子を眺めていた老いた、若い、男の、女の、人の姿、半人半獣の姿、獣の姿、そうした従者たちがひそひそと囁き声や唸り声を交わす。従者たちのそれぞれにつけた仮面の下からくぐもるように声が響く。

「乙女だ」

「臥せている」

「眠っているのか?」

「死んでいるのか?」

「生きているのなら眠っていよう」

「死んでいるのなら死んでいよう」

「だがここはディオニュソス様の島」

「そこに得体も知れぬ乙女とは」

「いかにしてこの島に?」

「ほら、遠くに船が」

「あの船が連れてきたのか?」

「あの船が置いていったのか?」

「いずこの船ぞ」

「アテナイの船ぞ」

「アテナイの王子テセウスの船ぞ」

「さればこの乙女は?」

「この乙女は何者ぞ?」

「ディオニュソス様がナクソスの島、そこにて眠るこの乙女。お前はいずこから来て、何ゆえにこの島に留まるか? ここはディオニュソス様がナクソスの島、そこにお前はいずこから来て、何ゆえにこの島に留まるか?」

「眠っているのか?」

「死んでいるのか?」

 もう一度ディオニュソスがすっと手を振った。従者たちがぴたりと言葉を止めると、馬の耳と馬の脚を持つ従者シレノスたちの一人にディオニュソスは葡萄酒を所望した。一人が抱えていた壺から葡萄酒を盃に注ぐと、シレノスはディオニュソスに歩み寄り、その盃を差し出す。受け取った盃を片手に、もう片手で乙女を包んでいたマントを少しばかりめくりあげると冷たく固くなったアリアドネの体をもう片腕の中に抱き上げ、そのすでに青ざめた唇に、ディオニュソスは葡萄酒を少しずつ注ぎ込む。空になった盃はそのままシレノスが受け取った。

「さて」

 青白い肌に色味が差し、唇にも紅が戻り、乾き始めていた肌が潤いに満ちた張りを見せ、そうして初めて、アリアドネは目を開いた。黄金色の長い髪を垂らしながら自分を覗き込んでいる見目麗しい青年の姿にびくりと怯えたが、ディオニュソスは口元にわずかな笑みを浮かべてアリアドネの頬を撫でた。

「目覚めたぞ」

「眠っていたのか」

「死んでいたのか」

「得体も知れぬ乙女よ」

「お前はいずこから来て」

「何ゆえにこの島に留まるか」

「眠っていたのか」

「死んでいたのか」

 一斉に口を開いた従者たちの怒涛の質問にアリアドネは目を瞬かせ、助けを求めるようにディオニュソスを見た。ディオニュソスが三度手を振ると、ぴたりと声が止まる。

「さて。私はゼウスを父とし、テーバイの王女セメレの胎より産まれし、葡萄酒の神ディオニュソス。この島ナクソスにはよく立ち寄る身だ。乙女よ、いかなる理由にてこの島にたどり着き留まっているのか?」

 朗々としてたおやかな声音にアリアドネは自分の胸が高く打つのを感じた。そしてその高鳴りに抗うかのようにぎゅっと自分を包んでいるマントを握りしめて答えようとしたとき、それがテセウスが自分に与えたマントではないことに気づいた。自分が握りしめる見知らぬ美しいマントを困惑で見つめていると、ディオニュソスがわずかに笑い声を漏らした。

「色褪せほつれたマントでは、あなたの美しさには釣り合わない」

 その言葉に再び従者たちが声をあげる。

「喜べや喜べや。ディオニュソス様の衣」

「清らかなる乙女たちが歌いながら紡ぎ織った衣」

「織られては解かれ解かれては織られ」

「そうして幾星霜もかけて織り上げられし衣」

「表には宇宙、裏には冥界」

「海の風にも色褪せず、剣の刃にもほつれない」

「でもあれは、テセウス様が私にくださったものなのです」

 アリアドネの言葉にぴたりと従者たちの歌が止まる。

「テセウス?」

 ディオニュソスが軽く首をかしげると、アリアドネは頷いた。

「私はクレタの王女アリアドネ。わけあってアテナイの王子テセウス様と共にアテナイへと向かいます途中この島に立ち寄りました。しかし折しも私が病に倒れ、心お優しいテセウス様は私の病が癒えるまで船出すまいと仰いました。しかし癒えることは叶わないと誰よりも私が知っておりました。いたずらにテセウス様の足手まといとなるよりはと思い、私が、この島に置いていってくださるよう頼んだのです」

 ディオニュソスが目を細めて笑みを浮かべた。

「ではあなた自身がここに留まると?」

「私のような下賤の身が貴いお方の遊ばれる場所を穢しましたことをお許しください」

 うつむくようにつぶやいたアリアドネの顎をディオニュソスの細くしなやかな指が捉え、顔を上げたアリアドネの視線をしかと見据えた。

「下賤であるものか、クレタの王女アリアドネ。あなたの美しさをどうして穢らわしいといえようか。あなたを飾るにふさわしいのは、天に掲げられるほどに美しい、金銀宝石で彩られた冠としか思えない」

 どっと従者たちが笑い声をあげ口々に叫び始める。

「そうだそうだその通り、ディオニュソス様の仰る通り」

「金銀宝石で彩られた冠を、その頭上に戴くといい」

「その冠を頭上に戴いたのなら、にぎやかな宴を開くとしよう」

「天と地と海とあらゆる場所へ知らしめよう、クレタの王女アリアドネが、我らが神ディオニュソス様の妻となられることを!」

 その言葉にぎょっとアリアドネが身をこわばらせた。くすくすとディオニュソスが笑うのに、知らずマントを握りしめる。

「でも、私は、テセウス様の」

「そのテセウスは今どこに?」

 ディオニュソスが笑みを浮かべたまま放った言葉に、今度こそアリアドネは絶句した。その沈黙から湧き出てくるように、従者たちの囁き声がアリアドネとディオニュソスの周りを包み込む。

「波の向こう波の向こう」

「アテナイの王子テセウスは、波の向こうの船の上」

「ディオニュソス様なら送り届けるもたやすいのでは?」

「海豚たちが喜んで運ぶだろう、ディオニュソス様の命とあらば」

「そうこの世にディオニュソス様の言葉を拒める者はなし」

「ましてやそれが、求婚の言葉であるのなら!」

 ディオニュソスがすっと腕を振ると従者たちが沈黙する。一つの芝居で一つの歌が終わるかのように。それからディオニュソスがアリアドネの目を覗き込むと、アリアドネはくらりと眩暈を覚えた。穏やかに細められた目を見返してはならないと咄嗟に思った。

「あなたはテセウスのために国を捨てた。されどそのテセウスはあなたを捨てた。ならば私と来るといい。野を駆け海を越え、私と共にオリンポスの頂へと登ろう。私はあなたの頭(こうべ)に冠を授け、テセウスには加護を与えよう。何故なら彼があなたを私の元へと連れてきたのだから」

 口を開いたのは言い返そうとしたからだった。テセウスは自分を捨てたわけではないと。ただ自分を連れていくことはもはやならなかったからだと。だが見返してしまった。ディオニュソスの目を見返してしまった。人ならざるとわかる整った顔立ちに白い肌。冷たい輝きしか湛えていないように見えたその目の奥に、触れれば酔いしれられるだろう温かな何かを見出してしまった。それはどこかで見たことがあった。テセウスが自分を見るときに目に宿していたものだった。そのテセウスはもういない。ここにはいない。彼は船を引き返さない。彼は自分を連れていかない。突然、自分がたった一人でここにいるのだと気づいた。父の膝を離れ、故国から足を遠ざけ、ただ一人この見知らぬ島で今、この見知らぬ神の膝の上でその目を見返しているのだと。

「テセウス様に加護をお与えになるというのは、まことでございますか」

 震える声で訊けば、ディオニュソスはわずかに笑みを浮かべた。

「それがあなたの望みとなればなおさら。ただ一つ、あなたが私の妻となれば、だが」

 アリアドネは頭がぼうっとするのを感じた。それは先ほど岩礁の上でテセウスの船を見送った後のあの気が遠くなる感覚と似ているような気がした。だがアリアドネはぎゅっと握った。ディオニュソスが彼女に纏わせたマントではなく、ディオニュソスの斑の小鹿の皮衣を。ディオニュソスが笑む。安堵の笑みを浮かべる。

「ではアリアドネ、私から冠を受け取ってくれるだろうか?」

 アリアドネが頷くと、それまで声を潜めていた従者たちがどっと歓声を上げた。それまで声を発さずにいた鳥たちが囀り、沈黙していた木々が風に葉を鳴らし、草花が踊るようにその色を輝かせた。ディオニュソスはアリアドネの体を片腕で支えたまま、もう片手を地に触れた。その手に花や実をつけた蔦が蛇のように這いより巻きついたかと思うと、するするとディオニュソスの手の中で輪を作り冠の形となった。そしてその蔦がどの端からともなく金や銀に輝き始め、花や実が光を放つ宝石に変わるのを、アリアドネは呆然と見ていた。そうしてその手に持った冠を、ディオニュソスはそっとアリアドネの頭(こうべ)に授けた。それはアリアドネのために造られたように、アリアドネのために造られたものだったから、その頭(こうべ)にすんなりと収まり、その輝きのためにアリアドネの美しさ自体が一層増したように見えた。

 ひょいとディオニュソスがアリアドネを腕に抱えたまま立ち上がる。一瞬その見目に似合わない力にアリアドネは目を丸くしたが、しかし考えるまでもなく神たる身、人並みならぬ力を持っていて何の不思議があるだろうか。そのまま豹の牽く馬車に乗りこむと、ディオニュソスはアリアドネを膝に抱えたまま馬車を出すように促す。騒がしい一団の出立にアリアドネはまだ驚きを隠せなかったが、ディオニュソスはその頭を胸に抱き寄せた。

「何も恐れることはない。彼らは私につき従う者たち。間違ってもあなたを傷つけることはないのだから。何よりも私がそうはさせない。私を愛する者を、私は何者からも守ろう。私を憎む者を、私は何においても罰しよう。何故なら私は、もっとも心優しき神にしてもっとも恐ろしい神なのだから」

 耳元で優しく囁かれた言葉にアリアドネは安らぐようにため息をついた。やがて一行と馬車が海に面した切り立った崖の上にたどり着く。ディオニュソスは再びアリアドネを抱えたまま馬車を降り、アリアドネの両足をそっと地面に下ろした。崖の下の海面にはいくつもの小舟が浮かんでいたが、その小舟が常と違っていたのは、その帆柱が葡萄樹の幹であり、本来帆が張られているところに葡萄の葉や実が垂れ下がっていることだった。従者たちや獣たちが崖から飛び降りていくが、まるでその場で飛び跳ねただけかのように難なく地に足をつけると、そのまま波の中を駆けて小舟へ次々乗り込んでいく。やがてディオニュソス自らが崖の下へと飛び降りていったが、同じように何事もなく降り立ち、一人崖の上に残されたアリアドネを見上げる。

「おいで、アリアドネ。私がここにいるのだから、何も恐れることはない」

 ディオニュソスの眼差しを見て、それまで恐る恐る崖の下を覗き込んでいたアリアドネは不意にあらゆる不安、あらゆる恐れが消え去るのを感じた。何があってもこの神は自分を守ってくれるという安堵感――もしくは陶酔――が今のアリアドネを包んでいた。アリアドネは崖の下のディオニュソスに微笑んでから、ひょいと崖の上から身を投げ出した。

 

*****

 

 船縁に手をかけて、テセウスは憮然と焦燥が入り混じった表情で海の向こうを見つめていた。それは懐かしいアテナイの方向ではなく、船を追いかけるかのように続く航跡の先、つまりアリアドネを置いてきた島の方向だった。

 やはり連れてくるべきだったのではないか?

 何度目かわからない問いをテセウスは心中でつぶやいた。アリアドネの頼みだったとはいえ、仮にも命の恩人であり愛する女性を置いてきたのは、テセウスにとって身も裂かれる思いだった。もちろんアテナイの王子として、クレタの王女を故国に連れ帰ることの危険性は知っている。だが元よりクレタの王の命令に逆らっての旅、咎められることは最初から分かっていた。何よりもあのままアリアドネがクレタに留まれば、その咎は真っ先にアリアドネに降りかかるのだ。それなら自分と共に船に乗り、自分が守ってやればいいだけの話。それを、アリアドネが自ら望んだからといって様も知れぬ島に置いていくとは……。もし島にたどり着いたクレタの人々によってアリアドネが連れ戻されたのなら? もし島の獣がアリアドネの身を引き裂いたのなら? もし島に潜んでいた野人によりアリアドネが穢されようものなら? あらゆる可能性が脳裏を蝕み、テセウスは深く息を吸った。それは自らのこうした考えを振り払うためでもあったが、このままではその吸った息で船を戻すよう命ずることになるとは薄々感づいていた。

 きっと戻ってきてくださいね、テセウス様。

 糸玉を自分に手渡しながら、あらゆる不安に苛まれているだろうに無理に、だが美しく微笑んだ乙女の姿を思い浮かべて、テセウスは唇を噛んだ。そして声を発するために口を開こうとしたとき、航跡とは違う白波が船を追っているのを見た。

「何だ?」

 テセウスの声に船乗りの一人が水面を見やる。

「ああ、海豚ですよ」

 もちろんテセウスもこの辺りに海豚がいることは知っていたし、時に船の近くを泳ぐのも見ていた。だが白波を立てて進む何頭もの海豚は、ただ近くを通った船と戯れようとしているようには思えなかった。まるで、この船に何か用事があるかのように。

 海豚たちが船を追い越し、船を囲むように泳ぎ始める。テセウスは船縁からその様子をじっと眺めていた。その内、ある一頭がどうも他の海豚とは様子の違うことに気づいた。その波をかき分ける鼻先に、何かが引っかかっているように見える……。そして不意にその一頭が、海中より船首へと躍り出るのを見た。海豚が波間を跳ねるように姿を見せることはあっても、このように高く飛びあがることはない。テセウスが船首へと走りながらそのことに何かの不吉を感じた瞬間、宙を舞っていたと見えた海豚の鼻先から牡牛の蹄が生えるのに、船乗りたちが驚愕の声をあげた。海豚から身を変えた猛々しい角を具えた牡牛。その角に何か黒い布のようなものが絡まっているのをテセウスは見た。そしてその牡牛の蹄が甲板に触れようとした瞬間、その蹄の先から一気に葡萄の蔓に変わる。そうして甲板には蔓の塊が残されるが、それも一瞬、その蔓をかき分けるようにして、黄金色の長い髪を持ち、斑の鹿の皮衣をまとい、片手には杖、頭(こうべ)には木蔦の冠、そしてもう片手に何かの布を手にした麗しい青年の姿が現れるころには、船乗りもテセウスの従者たちもテセウス自身も、発する声を失っていた。

 青年は仮面のように整った、だがどこか冷たい表情のまま、口を開いた。

「かく現れるは世の常の人の子に非ず、ゼウスの子ディオニュソス。アテナイの王子テセウスに告げることありて身を運んだ」

 その名前にテセウスは背中が薄ら寒くなるのを感じた。ディオニュソスといえば、怒りに触れればこの世ならぬ苦しみを味わうと恐れられる神々の中でも特に苛烈なことで知られる神だ。今の顕現を見ればそれが人ならぬ身、神の力においてのみ成せることであるのに疑う余地はないだろう。事実船乗りたちの中には今見たことに恐れをなし甲板に身を伏せうずくまっている者もいる。テセウスはぎりっと歯を食いしばり、一歩踏み出した。

「アテナイの王子テセウスとは私のこと。いかなるお言葉がありて参られましたか、ディオニュソス様」

 こちらを見てディオニュソスの仮面のように動かなかった表情に笑みを浮かぶのをテセウスは見たが、瞬時にその笑みが好意によるものでないことは察せられた。何かの怒りに触れたか、と思ったが、そうであれば姿を現すより先に罰を下しそうなものだ。

「母セメレの胎内より稲妻の炎と熱の中に産声をあげしディオニュソスが告ぐ。我が島ナクソスに汝が連れ置きし乙女アリアドネは、病癒えて息を吹き返したり。安んずるがよい」

 眼を丸くしてから、テセウスはもう一度その言葉を心中で繰り返した。それから口を開き震える声を発した。

「アリアドネが、病癒えたと?」

「我が島ナクソスに汝が連れ置きし乙女アリアドネは、病癒えて息を吹き返したり。安んずるがよい」

 もう一度表情も声音も変えずにディオニュソスが告げた言葉に、テセウスは息を吐き出した。だが震える手を振り上げ、船乗りに船を戻すよう告げるために口を開こうとしたとき、とんっとディオニュソスがその手に持つ杖で甲板を叩いた。

「ナクソスは我が島にて、我かの乙女を歓待せり。世にも美しき乙女にて、我かの乙女を我が妻に求めたり。乙女我が言葉に頷きたれば、我かの乙女を我が妻とす」

 先ほどの悪寒とは違うものがテセウスの背中を駆けた。

「何と?」

 不思議と震えなかった言葉に、ディオニュソスはやはり表情も声音も変えなかった。

「ナクソスは我が島にて、我かの乙女を歓待せり。世にも美しき乙女にて、我かの乙女を我が妻に求めたり。乙女我が言葉に頷きたれば、我かの乙女を我が妻とす」

 心中で繰り返そうとしたが、それはできなかった。耳の中で響いた言葉が意味を成すのに随分とかかった。そしてついに、テセウスは目の前の神に噛みつくように叫んだ。

「アリアドネは私の妻だ!」

 だがその言葉にディオニュソスは再びあの笑みを浮かべた。そしてそれが侮蔑の笑みであるとテセウスは気づいた。

「汝かの乙女を我が島に連れ置きたり。汝かの乙女を我が島に捨て置きたり」

「捨て置いた、捨て置いた?! あなたは何もわかっていない、私がどれほど心を痛めたか! アリアドネは優しすぎた、自分の病で迷惑をかけまいと思って……私はあくまでもアリアドネの頼みを聞いたまでだ、捨て置くつもりなど……!」

「たとえその病が、汝が子を腹に宿していたが故のものであれども?」

 氷柱に閉じ込められようとここまで身も心も冷え切ることはないだろう、と思うほどに、テセウスは全身が凍えるのを感じた。何度も瞬きをし、目の前の仮面のように美しい顔を、その言葉が嘘であることを探ろうとするように見つめた。だがディオニュソスの表情は変わらない。

「何と……?」

「たとえその病が、汝が子を腹に宿していたが故のものであれども? 哀れなる乙女、もはや子を産む力もなく。哀れなる乙女、安らげる故国の土から遠く、夫たりえた者から捨て置かれ、子諸共に息絶え土に還るが定めのあの様には、我が姉にして無垢な乙女の守護者たるアルテミスも憐憫の情を覚えられよう。その苦しみが長引かぬようその弓に矢をつがえ、産まれ来ぬ子のために張ったであろう胸を射抜こうと、その温情を讃えこそすれ謗る者はこの世には……」

「アリアドネが、私の、子を?」

 朗々と述べ立てていたディオニュソスがぴたりと言葉を止め、こちらを見る。その目に浮かぶ冷たい光。だがその冷たさは今のテセウスを恐れさせるものではなかった。もっと深い畏れに、囚われていた。

「だが死んだ」

 ディオニュソスの冷たい声音だけが、その畏れを揺るがした。

「アリアドネは死んだ。腹の子と共に。もはやかの乙女はクレタの王女、汝の妻たりえたアリアドネではない。かつて巨人族に身を引き裂かれ、その身を縫い合わせて冥界より還りたる神ザグレウスたる我ディオニュソスの花嫁」

「そんな、理屈、が」

 うめくとディオニュソスは口の端をあげてにんまりと笑ってみせた。どうしようもないほどに明らかな侮蔑と嘲り。どうしてその笑みを目にして平然と立っていられるのか、自分でもわからないほどの。

「我はもっとも心優しき神、そしてもっとも恐ろしき神。我を愛する者に、我は加護を授けよう。我を侮る者に、我は罰を与えよう。案ずることなかれ、アテナイの王子テセウス。汝かの乙女を我に連れ来たり。汝かの乙女を我に捧げたり。故に、我は汝に加護を授けよう」

「お前の―――加護―――など」

 腰に佩いた剣の柄に手を触れる。迷宮の奥、誰かを待ち構えていたようにこちらを見た牛頭人身のミノタウロスを斬った剣。こちらを見るディオニュソスの姿に、あの怪物の姿が重なり合う。ミノタウロスは目を輝かせた。だがその目は、腹を空かせた獣がついに来た獲物を見つけたのとは、少し、違っていた。まるで自分を待っていたかのように。そこでずっと待っていたかのように。ついに来た待ち人に、目を歓喜に輝かせて―――

「そこまで」

 柄に置いた手は槍の柄の尻で止められていた。目線を横に動かせば、輝ける兜と鎧をまとった乙女がその手に持つ槍で自分の手を制しながら、ディオニュソスをしかと見据えていた。

「約束と違うぞ、ディオニュソス」

 そう乙女が口を開くと、ディオニュソスはふわりと笑った。先ほどまでの冷たい笑みとは正反対の、まるで幼い少年が姉に甘えるかのような笑み。

「なあにが?」

「テセウスと他の周りの者と船には手を出さぬという約束であっただろう」

「手は出してないよ、アテナお姉さま」

 その名前に身が震えるのを感じた。いや、その姿を見た時には直感でわかっていた。この乙女は、自分の街の守護者たるアテナ女神に相違ないと。自分の手を抑える槍の柄の尻の感触を否が応でも意識する。

「先に手を出させるつもりであっただろう。さすがは我が父の子よ、口先がうまい」

 ディオニュソスが鈴が鳴るような笑い声をあげる。

「アテナ様」

 うめくと、乙女は笑みをわずかに浮かべて目線をこちらに向けた。

「汝はアテナイの王子、ここで果てる宿命にない。先ほどの言葉の通り、ディオニュソスは汝に加護を授ける。受け取るがよい。アリアドネはこやつの懐に入ってしまった。そこから引き出すことは、もはや叶わないのだから」

 おそらくは味方であろう乙女の、優しげな、そして酷な言葉に、唇を噛む。

「では、どうなるのです、私は、私の心は、命の恩人を、妻にと望んだ人を、奪われた、私は……」

「それもまた我の加護の内にあり」

 ディオニュソスの言葉に乙女と共にそちらを見る。その両手にはいつの間にか二つの盃があった。

「葡萄酒は我が人に授けし祝福の一つ。そして葡萄酒は水で割りて飲むが慣わし。我は手ずから汝の盃に葡萄酒を注がん。我は手ずから汝の盃に水を注がん。汝の心の憂いを、我は我の力にて取り除かん」

 隣に立つ乙女がわずかに顔をしかめた。

「お前、その水はどうやって」

「ヘルメスお兄さまの足は速いねえ」

 つくづく如才ないやつだ、と乙女がつぶやくのが聞こえた。ディオニュソスがこちらを見つめる。その目には先ほどまでの嘲りの色はなくなっていた。ただ、憐れむようにこちらを見ていた。

 ひたひたと甲板の上を歩んで、ディオニュソスが自分の正面に立つ。お姉さま、と首をわずかに傾げると、乙女が槍を引いた。それまで石になっていたかのように思えた手が自由になる。だが、柄を握る力はもはやなかった。

「さあ、手を」

 ディオニュソスの言葉に従うかのように、柄にかけていた手を差し出す。そしてその手に美しい盃が現れる。もしこのような状況でなければ、感嘆の声をあげ、自分のものにと望んだだろうほどに美しい盃。だが今、手の中の質感は、重みは、疎ましく思えた。その盃の上にディオニュソスが両手に持つ盃を掲げ、そして、深い紅色の葡萄酒と、澄んだ水とを注ぎこむ。とぷん、と自分の手の盃の中で液体が揺れた。

「さあ、口に。口にせよ、アテナイの王子テセウス。我の葡萄酒と、レーテの川の水。葡萄酒は汝の憂いを取り除き、レーテの川の水は汝の記憶を取り除かん。帰還せよ、帰還せよ、汝の務めはそこにあり。帰還せよ、帰還せよ、アテナイへ、汝の懐かしきアテナイへ。汝見事にクレタのミノタウロスを退治せん。汝その誉れと共にアテナイへと戻らん。汝身に傷一つなく、欠けたるものもなく、加えられたものも何もなく」

 手が動いた。盃が唇に触れた。日の照りつける甲板の上でその液体はひどく冷たかった。喉に流れ込んだそれが美味なのかはわからなかった。飲み干すために上を向いた目線の先の空はあまりにもきれいな色をしていた。唇が空になった盃を離れ、顔を下ろし、喉の奥へと流れ込む液体を飲み干し、手から盃が落ちる。盃が甲板にぶつかる音は、聞かなかった。

 日にじりじりと照らされた甲板を見下ろしながら、目をしばたたかせる。顔を上げると船乗りたちが懸命にアテナイへと船を進めている。その様子を何度も瞬きしながら見ていると、従者の一人が近づいてきた。

「もうすぐアテナイですね、テセウス様」

 嬉しそうに言う従者にああ、とつぶやく。アテナイを離れクレタへと向かったのが随分と昔に思える。ミノタウロスを退治した後は急いでアテナイへと船を出したが、この数日の航海の様子では、幸いクレタの追手に追いつかれることはないようだ。従者がふと視線を動かし、あ、と声をあげる。

「テセウス様、マントを落とされていますが」

 そう言って従者は甲板の上に落ちていたマントを手にした。確かにこれは自分のマント、風にあおられ飛ばされてしまったのに気づかなかったか。潮風にさらされて色も褪せ、ほつれも見える。アテナイへ戻れば新しいものを作らせなければ、と従者からマントを受け取る。

 受け取った瞬間、乙女の姿が脳裏をよぎった。どうしているだろうな、と考える。クレタに置いてきた、あの乙女は……。

 

 

 

 

 

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